窓の向こうの何でもない言葉
小さな頃、車や電車の窓から看板や広告の文字なんかを読むのが好きだった。正確には、今も好きだ。未だに電車やバスの窓の外の景色の中の文字を目で追っている時がある。
理由は知らない。初めは文字が読めるって事実を褒めてほしいとか、そんなことが理由だったかもしれないけれど、今も文字を追ってしまう理由は解らない。まあ、理由なんて今はどうでもいいことだ。
もういつの事だか思い出せないが、漢字が読めたのだからきっと小学生だったのだろう。祖父の運転する車の後部座席で、いつものように窓の外の文字を追っていた。
信号待ちで止まったそのタイミングで、斜め前の古びた家の木の塀に、聖書の言葉が引用されたプレートが掛かっているのが見えた。多分、黒地に白の文字だった。
その時の自分の気持ちや感想を思い出すことはできない。けれど、その光景やそこに書かれた言葉を、何故か随分長い間覚えていた。
『心の清い人は辛い』
高校に上がってからその言葉をふと思い出して、何となくその意味が解るような気がした。心が清い人の方が、恐らくこの世界を生きるのは辛いのだ。そしてその想いは、歳を経るごとに強くなった。
今も、この言葉を思い出す時がある。ひょんなことをきっかけに、この言葉を思い出す。そして、やっぱりその通りなんじゃないかなあ、と思う。
その言葉を、間違って覚えていたことを知った今も。
その言葉が、『マタイによる福音書』の五章八節に書かれたものであることを知ったのは、大学に入ってからだ。そしてその時同時に、自分がそれを間違って覚えていたことを知った。
マタイによる福音書五章八節に書かれた言葉は、『心の清い人は辛い』ではなく、『心の清い人は幸い』だったのだ。気付いて笑ってしまった。どうやら『幸い』を『辛い』と読み間違えていたらしい。
そうしてあの言葉は、聖書の言葉でも何でもない言葉になった。
けれど、その言葉の持つ意味までもが失われるわけではない。
記憶の中のあの古びた木の塀にかかったプレートには今も、黒地に白い文字で『心の清い人は辛い』と書かれている。街の喧騒の中で、通勤の電車で、画面の前で、その言葉を思い出す。読み間違えられた、何でもない言葉を。
あの人の心は、この人の心は、思い出す自分の心は、今、どうなのだろうか。あの人の幼い頃は、この人の幼い頃は、あの文字を読み違えた当時の自分の心は、一体どうだっただろう。
もしかしたら「清らかでない人」なんて、いないのかもしれない。
……とか、書いておいてなんだけど、苦笑いだ。
俺は早く寝るべきだな。