幸せは春の夜の夢のように

 4月の頭の方に書いたもの。

 火曜日(4/6)、仕事帰りに車で映画を見にいった。見た映画は『ソラニン』。浅野いにおの同名漫画を映画化したものだ。彼女が見たいというので、レイトショーを見に行った。
(ソラニン公式サイト:http://solanin-movie.jp/)

 以前(多分大学の3年とかの頃)、ネット上の知り合いに、『ソラニンの種田を見るとネムイを思い出す』と言われたことがあって、正直嬉しくなかったことを思い出した。映画の最中種田に対してイラついたのは、まあ、そういうこと――つまり、同族嫌悪なんだろう。

 映画自体は、まあまあだったように思う。好き嫌いは別として。(そもそも浅野いにお自体好き嫌いはかなり分かれそうだ)

 映画を観終わって、二人喫煙室に向かう。深夜0時近い映画館の喫煙室には自分たちしかいなかった。映画の感想を二人話しながら煙草を吸った。
 遅い時間の、空いた映画館は好きだ。混んだ映画館も、それはそれでいいんだけど。

 映画館を出ると、思いのほか外は暖かった。徒歩で5分10分かかる駐車場までの道を、手を繋いで歩いた。歩くには丁度よい気温だった。引き続き映画の感想や、暖かくなったこと、桜が綺麗なこと、明日の仕事がだるいこと等々、つまりは大凡どうでもいいような、けれど大切な日常についてのありふれた話をしながら、二人でゆっくりと歩いた。

 時折、風に桜の花びらがふわりふわりと舞った。桜吹雪という程花びらの量は多くなかったし、風も強くはなかったから、桜雪、とでもいえばいいのだろうか。

 夜にぼんやりと浮かぶ桜。暖かな風。隣を歩く恋人。握る手の温もり。とても素敵な夜だった。

 それはきっと自分にとって一つの「幸せの形」だ。今後、きっとその形は少しづつ変わっていくのだろう。それこそ、「幸せ」は『春の夜の夢のごとし』だ。
けれど、形を変えるのだとしても、今あるこの幸せを守るために、やれるだけのことはしたい。今いる恋人と、形を変えながら「幸せ」を感じ合うために、出来るだけのことはしたい。


 どんな沢山の優しい言葉でも、消えない不安や孤独はある。当然、言葉を重ねることに意味はあるし、それはそれで重要だ。けれど、彼女がこの手を握るその温もりや、自分胸の辺りに顔を埋めて眠るその温かさでしか貰えない安心がある。

 だからもし彼女が不安だというのなら、彼女の手を握るし、抱きしめる。それで彼女に安心が生まれるのなら、いくらでも。

 孤独や不安、苦しみや悲しみは完全に無くなったりは、しない。悲しいけれど、それらはどうしようもなくこの世界に存在する。僕の、俺の、私の、貴方の、君の、そばに、存在、する。

 けれど。

 温もりは、それを薄める。それを、忘れさせる。

 それは、自分が生きていく上で必要なことだ。弱い自分には、それが必要だ。

 人は、どんな言葉より、誰かの温もりに救われることがある。抱きしめられるという、その無条件の肯定に。

 そしてそれが、ぎりぎりのところで、踏み止まらせる。

 だから今日も。

 息を。

 続けられる。


Listened Music : 『SMALL TWO OF PIECES』 / Joan Hogg