若き日にこの身に刻まれた呪い

 最近、インスタグラムに写真をあげる際、ブログに書くような長文をキャプションにぶちこむというのが個人的な楽しみなのだが、正直本当にインスタグラムは文章を投稿する場所ではないので、2000文字ちょっとで制限になってしまう上めちゃめちゃに読みづらいので、今後はインスタグラムに挙げた文章を多少手直し、加筆してブログに放り込んでいこうと思う。もったいないのでな、文章を投稿する場所があるのに不向きな場所にドロップしてこっちを蔑ろにするというのは。書いてて思ったけどひねくれた楽しみ方をしている。ちなみにこの文章は、加筆訂正した分ふくめて約3500文字です。

 では、以下本文。

 初めて香水をつけたのは中学二年だった。ニットを着ていた記憶があるが、秋か冬だったのだろう。兄貴からもらったとかで学校に香水を持ってきた友人がいたのだ。もってきていたのは、Givenchyのウルトラマリンだった。つけてみようぜ、ということになった。香水の付け方などなにもしらない当時の俺たちのせいで、教室の一部がウルトラにマリンとなり、周辺の女子に「まじで臭い」と文句を言われたのを覚えている。香水を持ってきた当の友人もウルトラマリンはお気に召さず『くせー、こんなんいらねえ。誰かいる?』と言うので、なんとなく貰って帰ったのだった。香水に慣れていないせいかもしれないが実際匂いはかなり強く感じたし、自分自身もそんなにウルトラマリンの匂いは好きではなかったのだが、「香水」というアイテムそれ自体には強い魅力を感じたのだ。
 
 あの頃の俺たちと言えば、体育の後には制汗剤を振りまき自身の汗臭さを消し去ろうと必死な思春期真っただ中にあった。デオナチュレやAGなどはまだ存在しない時代、そこにはギャッツビーとエイトフォーシーブリーズがあった。汗拭きシートで体を拭き、脂取りシートで顔の油を取り、ワックスで髪を直し、脇にスプレーを振った。大概メンズの商品はメントールが配合されていてスースーしまくっていた。思春期のクソガキは大概それをチンコに振るが、そうした箇所へのメントールは大概清涼感ではなく熱く感じるのだった。まじでどうでもいい。とにかく、そんな色気づいた思春期のクソガキに「香水」は新しい世界を見せてくれたのだ。つまり、汗臭さを消すためではなく、そもそも自分自身がいい匂いを纏うという自分の中になかった発想。GIVENCHYがどんなブランドなのか、なんなら読み方も知らなかったが、香水のガラス瓶にはウルトラでマリンな色をした液体が入っていて、その液体は間違いなく制汗剤とは一線を画すウルトラでマリンな匂いをしていて、なんだか大人な感じもしたし、心が躍る感じがしたのだ。

 塾をさぼりまくる俺にしびれを切らした両親により、家庭教師のトライから派遣された慶応義塾大学在学中の家庭教師がついたのもその頃だった。彼はとても教えるのが上手く、また割合自分とも相性がよかった。当然、彼が合わせてくれていた部分は大いにあったとは思うが、休憩時間には格闘ゲームの対戦に興じ(KOF97か98をやっていた。私はブルーマリーとテリーボガードを使用していた。パワーゲイザー)、ついこないだもメールで連絡を取ったので、やはりそこそこ相性がよかったのだろう。歳の差と偏差値の差は大いにあったが。とはいえ、おかげで高校受験で予想を大幅に上回る結果を出すのはもう少し先の話だが、そんな家庭教師にもらった香水の話をしたところ、『今俺ブルガリのプールオムってやつしかつけないから使ってないやつあげるよ』と言われたのだった。なるほど、この男からしていたこの匂いは『ブルガリプールオム』って匂いなんだな。それが、中学二年の自分とブルガリプールオムの出会いであった。ちなみに、家庭教師からもらったのはCalvinKleinのCKoneとbeで、そこから私の香水人生が始まるのだが、今日はブルガリプールオムの話である。
 
 BvlgariのPour hommeという香水は、時代に燦然と輝く金字塔的香水といっても過言ではない。世界的にも大ヒットしたそうだし、日本でも、猫も杓子もプールオムをつけていたし、街を歩けばプールオムにあたった。2000年前後に学生だった人間で、香水をちょっと知っていたらブルガリプールオムを知らないやつはいない(断定)。それと知らなくてもブルガリプールオムの匂いを嗅いだことのない人間はきっと少ない。それくらいブルガリプールオムを人々はつけてた。場所、年齢、シーンを問わない超万能名香水であり、香水史上初のダージリンの香りの香水でもある。軽やかで爽やかで清潔感があり、日本の気候や事情にマッチしまくっていた。実際、いい匂いだし、つけやすいのに、けっして安っぽい香りではなく高級感もあった。

 などと書いてきたものの、当時自分自身はプールオムをつけてはいなかった。というのも、家庭教師がつけていたのもあったし、身近な友人も使っていたので匂いかぶりがいやだったのだ(高校に入ってから大学3年くらいまではBurberryのweek end for Menを使っていた)。ひねくれていたので、多くの人と同じものをつけたくなかったんだよな。ただ、そうした自分のひねくれを越えてプールオムがいい匂いだということにまったく異論はなかったし、今でも時折街で香るといい匂いだし、なんなら当時つけてたらよかったんじゃないか。そういえば、こないだ取引先のおっさんがつけていた。たぶん、昔からずっと使っているのだろう。そういうおじさんも結構いるのかもしれない(そういう意味だと現在はおじさんの香りになっている可能性もあるのか……?)

 さて、子供が大きくなったこともあり、ここ4年ほどでまた香水熱が再燃した。学生時代は決まった香りしかつけなかったのだが、それには正直金銭的な問題もあった。weekendのあと、diptyqueの今は亡きjardin closという香水をつけていたのだが、学生の身にdiptyqueは高価であった。しかし今は当時と違いいくらか自由になるお金もあり、今現在の日本の環境として、自分が学生時代よりも香水売場の面積が拡大していて、当時では手に入らなかった香水や、新進気鋭のメゾンがどんどん出てきているし、香水が身近になって、様々な香水を手にとりやすい環境になった。そう、沼が手招きをしていたのだった。沼にはまると、それに関するいろいろなことを調べたくなるのがオタクのSAGAである。香水の歴史や、どんなブランドがあり、そのブランドの歴史はどうなんだろう。香水のノート(調香)について、ノートにはどんなものがあり、それぞれどんな香りなのか。そして、それら香水を生み出す、調香師。特に調香師について調べることは面白かった。あの香りはこの人が作っていたのか!この香りも!?という驚きがあった。(ただし、香水オタクを名乗ることはとてもではないができない。この世界のオタクや沼にどっぷりとつかった住人たちの情熱から見たら俺などヒヨコにもなれぬレベルである)。そしてクッソ長い前置きを終え、ここからやっと本題に入るわけだが、ブルガリプールオムを作ったジャック・キャバリエという調香師が、現在ルイヴィトン専属調香師となってルイヴィトンの財でもって、一切の妥協ない素材や香料を用い、ハイパーでスペシャルな香水を作っているという。そして、そのジャックキャバリエが、ブルガリプールオムから25年の時を経て、満を持してお茶の香水を出していたというのである(正確にはお茶が主役の香水ではないのだけど)。

 そしてまあ、まんまと買ったってわけ(この文章書き始めたのは22年10月なので、買ってから一年が経ちました)

 まあなんか香りについてはもうなんも言うまいよ。Louis Vuittonにいって試してほしい。正直イマジナシオンだけじゃなくて、LOUISVUITTON香水いい香りが多すぎてまじで困ってる。とくにパルファンドコローニュなる、コロンのように軽やかにつけられるパルファムとかいうふざけたシリーズは漏れなくいい香りだし、この夏発売したPacific Chillも実際購入したし、AfternoonSwimも買う。スペルオンユーもまじでいいし、中東シリーズみたいなウードシリーズはちょっとウードが得意じゃないのであれなんですけど、ほんとにジャックキャバリエおじさんはすごい。ルイヴィトンがすごいというのもあるか。

 なんかこう、若いころに触れたものによる呪いみたいなものってあると思っていて、エディスリマン期Diorサンローラン絶頂時代に学生時代を過ごしたことによるスリマンの呪いとか、若き日に流れまくっていた小室サウンドとかヴィジュアル系全盛時代の音とか、村上春樹の文章もそれかもしれないんだけど、そういう若き日に刻まれた呪いの影響を今も感じることは多い。そしてつまり、ブルガリプールオム世代の俺たちは、ジャックキャバリエから逃れることはできないのだ。

20200613

 こないだ、約二か月ぶりにジムに行った。今回の新型コロナでジムが閉まって、緊急事態宣言解除に伴って営業を再開したらしい。外から覗いてみて混雑していたら帰ろうと思っていたのだが、ほとんど人はいなかった。家でもトレーニングは続けていたが、やはり家より集中できるというか、それしかやることがないというか、そのために行っているので、自分にとってはトレーニング効果が高いように思える。というか、追い込みすぎて吐くかと思った。筋肉痛が治らない。あと、マスクしながら鍛えるのがきつい。

 この6月でジムに通い始めて二年になるけど、二年前の写真と比較するとだいぶ体が大きくなった。通い始めたときにジムに行った日の風呂上りに写真を撮るようにしていたのだが、体の変化が目に見えて分かるので撮っておいてよかったと思う。こないだ比べてみて、二年前は記憶にあるよりも体が貧弱だったので驚いてしまった。まあそもそも、学生時代の遺産だけで大して運動もせずにいた結果体のキレが失われたことを憂いてジムに通い始めたので、二年前は実際貧弱であったのだろう。服のサイズが変わったりしたので大きくなったことは分かっているのだが、やはり変化が徐々に来ているのと、マジのキン肉マンたちが多すぎて自分の体がまったく大きく見えない(見れない)。あと、二年くらい通ってると、よく見る人とかもちろんいるんだけど、同時期に入会してたり、あとから入った人もどんどん体でかくなってたりするので面白い。もちろん、見なくなった人もいる。

 緊急事態宣言が解除されて、少しづつ人の流れが戻ってきて、在宅だった仕事が今まで通りの勤務体制に戻り、少しづついろいろなことが動き始めた感じがする。とはいえ、街行く人々は皆マスクをしているし、多くのお店では検温や消毒を入り口で実施しているし、以前と同じ日常が戻ってきているわけではない(もちろん、まったく意に介さず過ごしている人もいるだろうけれど)。状況を見ながら、なんとかバランスを探ってやっていくような感じなのだろう。まだ、決定的になにか解決をみたわけではなく、濃淡が変化している中にいる、という感覚だ。こうした状況は、あとひと月ふた月でどうこうなるわけではなく、落ち着くまでには時間がかかるのだろう。新しい生活様式という言葉があるが(売れない芸人のコンビ名ぽい、どうもー新しい生活様式です!)、以前の生活に戻ることを思うより、今この変化する状況に柔軟に対応することこそが日常になったのだ、と思って生活するほうが疲れないだろうけど、なかなか難しい。

 4月~ゴールデンウィーク終わりくらいまでは、あまり悩むことは少なかった。当時(今もそうだが)、今回の状況におかれて自分ができることはそこまで多くなくて『なるべく外出をせず、外出時にはマスクを着用し、手洗いうがいを徹底、そのうえで自身の体調(や変化)に注意する』くらいだった。どちらかというと、心が摩耗しないようにすることのほうが、自分にとっての気を付けるポイントだった。日常の何でもない行為に、ひっかかりや、ためらいがあるという状況は、気づかぬうちに少しづつ積み重なって心を重くする。そのうえ、気分転換に外出したり友人らと会うといった手段をとれないとなると、余計だ。なので、心が摩耗しないように、極端に新型コロナに怯えて身動きが取れなくならないように、という感じで日々を過ごしていた。

 ただ、今はちょっと状況が変わった。東京アラートとかいう都庁とレインボーブリッジを赤くするエンタテイメントが発動されてはいるものの、4月5月よりは格段に全体が緩んだし、なんなら全面解除の感覚の人も周囲に割といる。どこまでがオッケーでどこまでがだめなのかの判断が人によってめちゃくちゃに割れる。はっきり言って今のほうが断然疲れる。なんというか、日常みたいなツラして全然日常じゃないのに、日常を強いられているような感覚がある。書いててわかったけど、まあ疲れるよな。疲れないほうがおかしい。やっぱり、仕事がだめなんじゃないか。仕事は人にとって負担なので取り除いたほうが良い。

 そんななかで、ジム復帰はまあ、一ついいことだ。運動するとすっきりするので。

 4月、5月は、心のどっかで常にハワイに行きたいなあ、と思って、ハワイアンミュージックばかり聞いていた。Instagramにも書いたからそのまま引用するんだけど、ハワイに行きたいというのは実際には『これは、今に限ったことではなく、割と年中そう思っているのだが、これはおそらく現実のハワイに行きたい、というのとは少し異なる。この現実からの逃避先として存在する鉤括弧つきの「ハワイ」である。存在しないはずの記憶の中の「夏」もそれと似たものだろうが、ハワイは現実に行けて、かつ、現実に行っても最高な点で異なる』というのが正確だろうと思う。ハワイアンミュージックばかりきいて、ネットでアロハシャツを買い、youtubeでハワイの4K映像を見たりしていた。ハワイにいけないなら、ここをハワイにすればいいのだ、みたいな気持ちだった。割と救われていたような気がする。話がずれるが、現在アロハシャツの手持ちは3枚で、内1枚がコットン、2枚がレーヨンなのだけど、レーヨンは洗うのめんどくさいことを除くと涼しくてほんといい。毎日アロハでもいい。時間だけはめちゃめちゃあったのでアロハシャツについて色々調べてたらアロハシャツについて少し詳しくなったし、アロハシャツ名柄めちゃ出てくる映画「地上より永遠に」って映画もアロハのために観た。映画に出てきたアロハ、まんまと買ったよ。めっちゃいい柄なんだ。今年もう一着くらいアロハ買ってもいいな。アロハおじさんになる。

 ハワイいきてえなあ。

ブリーフとトランクスとボクサーパンツ

 ツイッターに書くには長く、ブログに書くには短い、みたいな気持ちがしてじゃあどこに書けばいいんだこの想いは……っ! って思ったのだけど、ブログはある程度長く、かつ内容がなかえればならないみたいな思い込みって毎度発生するんだけどこれはいったいどこ由来なのか。俺は屈しない。

 下着の話をしたい。

 今現在、下着と言えばボクサーパンツを選んではいている。けれども、なぜボクサーパンツを履くようになったのかまったく思い出せないでいる。いくつか「こうではないか」みたいなことを予想はしているのだが、約20年前の自分の気持ちについての記憶が格納された脳内のどこかとはネットワークが完全に切断されており、再接続の兆しがない。まあとにかく、そうして下着について考えていたのだけれど、なんか文章にしようって思ったので書くことにした。

 下着について自分自身で明確に「こうしたい」という意思を持ったのは恐らく中学入学してからであったような記憶がある。小学校の高学年であった可能性もあるが、とにかく、その辺りで「下着への意志」が芽生えたように思う。昨今の小学生は恐らくそうではないのだろうけれども、私が小学生男子であった時代、私の通う小学校では男子児童と言えば白ブリーフという時代であった(他校や他地域についてはしらん)。白ブリーフ以外の男児がいれば目立ったと思うので覚えていると思うのだが、まあ小学校時代の記憶など頼りにはならないので何とも言えない。ただ、それでも大多数は白ブリーフであったと思う。校則のような、ないしは明文化されない白ブリーフ要請が学校からあったのかどうかは知らない。とにもかくにも、我が校の男児はみな白いブリーフをはいていた。そうしてある日白ブリーフたちは中学へと進学するのだが、徐々に白ブリーフからトランクスへと変化するものが現れはじめた。白ブリーフはお子様のはくもの、大人はトランクスをはいている、みたいな風潮があった。一人、また一人と白ブリーフがトランクスへと姿を変えた。私も漏れなくそのムーブメントに乗った。ブリーフではなくトランクスへとシフトしたのだ。当時の気持ちは思い出せないが、一つ大人の階段を上ったような心地であったことだろうと思う。私服だった小学校を卒業し、中学生への進級を分かりやすく体現する制服に身を包むことで、急に大人になったような気持ちになるそれと似たような心地だろう。しかし、トランクスには明確に一つ、大きな問題があった。ちんこが見えるのである。

 私が通っていた中学校は体育の授業時ホットパンツかと思うほどの丈の、文字通り短パンが体育着として指定されていた。トランクスの種類によっては短パンよりもトランクスの丈の方が長く、短パンからトランクスがはみ出すことは日常茶飯事であった。けれども、丈はホットパンツであるのに裾はゆるっゆるであった。つまりトランクスの上に緩いトランクスを重ねているような、そう、実質トランクスの二枚ばきである。そして、その短パンが諸悪の根源であった。体育の授業の際、校庭なり体育館なりで二列横隊で座らされるとき、私たちは体育座りなる座り方で座っていた。この文章をお読みの紳士淑女の皆様も体育座り、ないしは三角座りをした経験がおありだろうと思う。一応説明すると、Wikipediaによれば「尻を地や床などに着けて、両脚の膝を立てて踵を揃え、両腕は両膝を抱え込む坐法を指す」という座り方であるのだが、この座り方をすると、そう、短パンとトランクスの裾からちんこが見えるのである。見えるだけならまだいい、ときに裾がまくりあがればモノがまろびでることすらあった。悪夢である。恐らく、体育座りの生徒の前に立つ体育教師には数多くのチンチラ(猫ではない)が見えていたことと思う。そこで私は体育のある日はブリーフ、ない日はトランクスと使い分けるようになった。体育の時間のたびにチンチラ(猫ではない)に怯えるのはいやだったし、当時も今も私はちんこを他人に見られて喜ぶ性癖は持ち合わせていない。

 閑話休題。ちんこがまろび出る話は完全に余談だった。そういえばちんこ出てたなーって思い出したら書きたくなってしまった。あとどうしようもない話なんだけど、いくつになってもちんこって言葉の響きにはなにか感じるものがあるんだよ。あるんだ(強い意志)。

 そうして、体育の授業のない日はトランクスへと進化した私であったが、中学を卒業し高校の一年生時、一体どのタイミングかは覚えていないのだが、ボクサーパンツをはき始めた。理由は前述のとおり覚えていない。ただ、いくつか、こうではないか、という理由を想像はできる。トランクスはタイトなジーンズなどをはいていると裾がまくれ上がってきて食い込んで来たり、ジーンズ内で裾がもたついたりすることが割と結構な頻度であり、その辺りはいかんともしがたい不快さを感じていた記憶がある。あと、若干ボトムを腰で履いたときに、こうトランクスが余る感じが嫌だった(説明をあきらめている文章)。また、緩いジャージのようなものをはいて運動をする際、トランクスではホールド感が足りないと感じることがあった。トランクスの中で上下左右に彼はあまりに自由であった。女性が運動の際にスポーツブラをするのと同じように、私は運動中にはある程度のホールド力が欲しい。また、恐らく中学時に「運動時はブリーフ」という習慣が、運動時には若干のホールド力、みたいな慣れにつながっていたのだろうと思う。でも今さらブリーフってのもどうなの……そんな私にとってのいいとこどりだったのがボクサーパンツだったのではないか。まあ、あとは覚えてないけど誰か芸能人とか雑誌とかでボクサーパンツ見てめっちゃかっこいいじゃん、って思ったのかもしれない。高校が私服の高校だったのもあって、そのころからファッション雑誌を読み始めたのだけれど、大概ファッション誌の広告で、めっちゃマッチョのかっこいい外人がカルバンクラインのボクサーパンツ履いてた記憶あるし、もっとそういう理由かもしれない。まじで覚えていない。けれどもとにかく高校一年生の時にボクサーパンツにシフトしたのだった。

 当時、ボクサーパンツは完全なる少数派であった。というかボクサーパンツをはいてるのはクラスで私だけだった。昨今では男性が下着にボクサーパンツをチョイスするのは珍しくないというか、どちらかというともはやそれが普通みたいな感じに思われるのだけれど、少なくとも20年近く前はそうではなかった。腰パンの男が見せていたのはトランクスだった。そうしたなか、私がチョイスしたのはカルバンクラインのグレーのボクサーパンツだった。カルバンクラインを選んだのは、前述の雑誌等の影響であるように思う。トランクスのような見た目でありながら、適度なフィット感を提供するこの下着に私は完全にとりこになった。もうボクサーパンツ以外はく必要ないな、と大げさではなく思ったのだった(実際、それから約20年ボクサーパンツをはき続けている)。ボクサーパンツに変わったことは、ブリーフからトランクスになったときのような気持ちを運んでくることはなかったのだけれど、思春期真只中にあった私にとって、人と違うものを自分が身に着けている優越感のようなものがあったかもしれない。ある日、他クラスと合同の体育の時間の際、今までほぼ喋ったことのないギャル男が急に私に話しかけてきて「○○くんって、パンツいつもカルバンクラインだよね。○○くんったらカルバンクラインって感じあるよ。いいよな」と言われたことを覚えている。誰だったんだあいつ。名前も思い出せない。ただ、あのギャル男にとって「カルバンクラインのボクサーパンツ」というのは言及するに足るアイテムであったのだろう。そして、そうしたアイテムを自分が選んでいたことが、当時の自分にはちょっと嬉しかったのだと思う。だから記憶にあるんだろう。高校生の俺かわいいかよ。

 まあ、そうしてボクサーパンツをはき始めて今に至るんだけれど、今はたぶんほとんどボクサーパンツが主流っぽいよね。いつからそうなったのかとかは検索すればそうした言及がありそう。今の若者は逆にトランクスがかっこいいみたいなカウンターが起きたりしているんだろうか。ちなみに、カルバンクラインの無地のものを長らく愛用していたのだけれど、他ブランドにもいくつか手を出してみた時期があった。派手な柄のものだったり、マイナーなブランドのものだったり。けれど、結局またカルバンクラインの無地に戻ってきている。回帰って感じだ。落ち着く。

 いまいち何が書きたくて書き始めたわけじゃないので話の着地点を全く想像していないかった。もうこのまま終わるけど、言いたかったのはそうだ、「カルバンクラインのボクサーパンツはベタかもしれないけどまじでいい」ってことです。まじで下着の話だった。なんでこんなの書きたかったんだろう。でもすごい満足感がある。冒頭でブログには短いみたいな話したけどめっちゃ書いたわ。あと、最後にどうでもいいけど、カルバンクラインのボクサーパンツっぽい素材というか見た目の女性のアンダーウェア、あれすごいいよね。カルバンクラインのインスタグラム見てるとたまに海外女性がその下着姿で登場するんだけど、まこと性癖に刺さる。