Lily Chou-Chou 2010.12.15 Live "エーテル" 行ってきた
タイトルの通り、Lily Chou-Chouのライブに行ってきた。その感想を書こうと思う。
はじめに断っておきたいのだけれど、今日のエントリは純粋な「音楽」を主題とした話ではない。そしてそれを断った上で、この文章の結論を言っておく。
「期待と違った」
この文章は、ただそれだけの話を、ぐちゃぐちゃ理屈をつけて書いたものだ。あと、長い。8kくらい。約4000字。暇潰しにどうぞ。
知らない人の為に、話の展開の為に、少しだけLily Chou-Chouと、「リリイ・シュシュのすべて」について説明しようと思う。(※ここ読んだ方が後の感想分かりよいとは思うけど、不要な人は次のまとまりまで飛ばしてしまっても特に問題はない)
ぐちゃぐちゃと書いていくので、折角だからLily Chou-Chouの曲でも聴きながら読んでくれれば、と思う。
Lily Chou-Chou「飽和」「回復する傷」
Lily Chou-Chouは、2001年に公開された岩井俊二監督作品「リリイ・シュシュのすべて」に登場するシンガーソングライターだ。中の人はSalyuという現在も活動する歌い手。
『〜に登場する』と表現はしたけれど、実際に彼女の姿が画面に登場するのは、映画内で流れるPVだけだ。登場人物と言うには『登場』しないし、彼女自身は直接的に物語に関わらない。けれど、映画の全篇を通して彼女がいないシーンは少ない。音楽の中に、背景に、登場人物の会話に、そこかしこに彼女がいる。言うなれば、彼女は物語の核となる重要な舞台背景なのだ。その物語の世界を構成する決定的な、重要な、要素。
と、同時に、彼女は現実にも存在していた。Wikipedia「Lily Chou-Chou」によれば、『現実世界と映画世界との融合を狙っていた』岩井俊二の計画に合わせて『歌手養成機関で音楽のスキルを磨いていたSalyu、そこでSalyuを射止めた音楽プロデューサーの小林武史、映画監督であり作家の岩井俊二のスリーピースユニット』として『現実』に誕生した。
映画の音楽を担当した小林武史の言葉を引用しよう。
この作品ではタイトルでもあるLily Chou-Chouの歌が重要な役割を担っている。それを製作する上で、「リリイ・シュシュというアーティストを“ねつ造”することには意味を見出せなかった」、「リリイ・シュシュによって言葉を与えられたSalyuの声の響き中から、その形を探していった」と小林武史は語っている。
Wikipedia「リリイ・シュシュのすべて」
http://ja.wikipedia.org/wiki/リリイ・シュシュのすべて
つまり、Lily Chou-Chouというアーティストは「現実の存在」と「創作された存在」とが重なりあうシュレーディンガーの猫みたいな存在なのだ。フィクションでもあり、リアルでもある。
そういう意味で、Lily Chou-Chouは特殊なアーティストだと言えると思う。
その後、ユニットLily Chou-Chouは映画の公開終了に伴って解散。ユニットのボーカリストは、「Salyu」という名でメジャーデビューを果たす。Salyuとしてデビューしてから、ライブでSalyuがLily Chou-Chouの楽曲を歌うことはあったけれど、Lily Chou-Chouとしての活動はこれまで一切なかった。
十年目の今年、Lily Chou-Chouは再結成されることとなった。Salyu、小林武史、名越由貴夫という三人のユニットとして。その復活ライブとでも言うべきライブが、このエントリのタイトルになったライブだった。
そのライブが、自分が期待したものとは「違って」いたのだ。「裏切られたとは決して言わない。それは、ただ「違った」だけだ。そして俺はその違いを、好意的に受け入れることができなかった。
ライブ中、MCは一切なかった。Lily Chou-Chouは一言も言葉を発することなくただ、ひたすらに楽曲と映像のみで見に来た我々に何かを発信していた。Lily Chou-Chouというアーティストの特異性を考慮した結果だったのだろうと思う。
音楽、というよりもSalyuの歌声は素晴らしかった。Salyuの歌を生で聴くのは多分これで三度目だと思うが、毎回毎回Salyuの歌唱力には驚かされる。
好きな曲も沢山聴けた。そこまで響いていなかった「エーテル」という新曲も鳥肌物だった。けれど、途中ステージに立っていたのは「Salyu」だった。たったそれだけ。だけど、それが致命的だった。
このライブが「Salyu」のライブであったなら、きっと俺は手放しでこのライブを絶賛したと思う。俺は「Salyu」が好きだし、後半のSalyuは神がかっていた。けれど、残念ながらこのライブは「Salyu」のライブではなかった。そして俺が望んだのは、俺が期待したのは「Lily Chou-Chou」のライブだったのだから。
ライブで歌われたのは全18曲。そのうち7曲が「Salyu」の曲だった。
ライブのセットリストは以下の通り。(セットリストはTwitterのnyanchiさん(@nyanchi69)のツイートから引用 http://twitter.com/#!/nyanchi69/status/15039200382418944 )
- 空虚な石
- 愛の実験
- 飛行船
- 飽和
- エロティック
- 再生(Salyu楽曲)
- アイアム(Salyu楽曲)
- 鏡(Salyu楽曲)
- 夜の海遠い出会いに(Salyu楽曲)
- プラットホーム(Salyu楽曲)
- アラベスク
- 砂(Salyu楽曲)
- landmark(Salyu楽曲)
- My Memory(新曲?)
- 飛べない翼
- 回復する傷
- エーテル(新曲)
- グライド
始まりと終わりにLily Chou-Chouの、中間にSalyuの曲を配置したこの構成には、きっとなんらかの意図があったのだろうと思う(というよりも、これだけ偏った構成にしたことに意味を見出さないようにする方が難しい)。
例えばそれは「新しいLily Chou-Chou」を強調するための構造だったのかもしれない。
10年という時間の間に、当然Lily Chou-Chouのメンバーには様々な精神的に肉体的変化があっただろう。当然、それが10年前と同じであるということはあり得ない。けれど、映画やCDの中にいる「Lily Chou-Chou」は10年間全く同じ姿で存在し続けた。どうしようもないことだけれど、ことLily Chou-Chouというアーティストにおいてその変化は決定的な「乖離」となりうる。「Lily Chou-Chou」は「創作」と「現実」の重なり合う特異な存在として「現実」に在ったからだ。けれど、そこが「重ならなく」なってしまうのだ。
だからその乖離を、そのギャップを失くすために、このような構成をとったのではないか。俺はそう想像する。
「Lily Chou-Chou」に始まり、「Salyu」へと変わり(それでいてSalyuはLily Chou-Chouを内包し)、そして再び「Lily Chou-Chou」へ。といったような。セットリストから、そんなストーリーを読み取ることもできなくなはないからだ。
けれど、少なくとも自分にとってそのストーリーは効果的に映らなかった。それは「既存イメージの破壊」だった。
Salyuは自身のライブで時折「Lily Chou-Chou」の楽曲を歌うことがあるが、俺はそれに違和感を覚えない。なぜなら「Salyu」は「Lily Chou-Chou」の中の人だからだ。中の人が自身のライブで役の曲を歌うことに違和感を抱く人はそう多くいまい。
けれど、「Lily Chou-Chou」が「Salyu」の楽曲を歌うというのは、それとはまったく別の意味を持ってしまう。
もう一度繰り返すが、「Salyu」は「Lily Chou-Chou」の中の人なのだ。「Lily Chou-Chou」として舞台にあがった「Salyu」が「Salyu」の楽曲を歌ってしまえば、それは「Lily Chou-Chou」ではなく、「Salyu」になってしまう。どうしようもなく不可逆なのだ。「Salyu」が「Lily Chou-Chou」になることはできても、「Lily Chou-Chou」が「Salyu」になることはできない。
中間に配置されたSalyuの楽曲が演奏されていた時間帯、そこでは「Lily Chou-Chou」という既存のイメージの破壊が行われていた。俺にはそう見えた。『「Lily Chou-Chou」は虚像なのだ、「Lily Chou-Chou」は「Salyu」なのだ』。そう、観客に見せつけているみたいに。
あるいは、それがあのライブの意図だったのかもしれない。新しい「Lily Chou-Chou」を見せること。10年の乖離を埋めるのではなく、既存のイメージを破壊することでその乖離を無くそうとしたのかもしれない。
考えれば、そうして発信者の意図を想像することはできる。けれど、俺はそんなことを「期待」していなかった。例え、新しい「Lily Chou-Chou」を見せるためだったのだとしても、既存の「Lily Chou-Chou」を壊す必要は、どこにも存在しなかった。けれど現実には、「Lily Chou-Chouのライブ」は「Salyuのライブ」になった。既存の「Lily Chou-Chou」を破壊して。
……なんでこんなことをぐちぐち言うかって、残念だったからだ。ライブ自体がとても素晴らしかっただけに。
あのSalyuの楽曲が続いた時間帯、会場内には戸惑いや疑問や失望みたいなもんが渦巻いていた。拍手すら起こらない異常な空気だったのだ。「memory(仮)」から再度始まったLily Chou-Chouの時間だったけれど、俺はもう完全に醒めてしまっていた。ライブに対する情熱や興味関心がどうしようもなく薄れていた。だから、もうきっと今日のライブは楽しめまい、と思っていたのだ。
けれど、「飛べない翼」から「回復する傷」そして「エーテル」へと続いたあの流れで、あれだけ消沈していた会場の空気は明らかに変わった。それくらい、Salyuの歌や演奏には力があった。聴き手を引きずり込む、圧倒的な力。
だからこそ、あの中間の時間帯がなければ、と思わずにいられない。7曲分時間が短くてもよかった。あの7曲のないライブだったら、と。
そして何より残念なのは、俺よりこれを楽しみにしていたある人が、きっと俺より残念に思っているのが分かるからだ。
10年という時間は長い時間だ。そんなこと分かってる。そこに変化があることも、映画の「Lily Chou-Chou」の時間が止まっていることも。でも「破壊」しなくたって、新しい「Lily Chou-Chou」を見せることができた筈だ。だって十分に見せていたじゃないか。あの二つの新曲は、演奏と歌は、それだけで10年後の「Lily Chou-Chou」を表現していた筈だし、きっとそれなら受け入れることができた。
避けられたことだと思うから、残念なのだと思う。不可避じゃなかった。だから、どうしようもない、とは言えない。
……いや、分かっているよ。だから何度も繰り返し書いている。
「俺の」期待と違った。それこそ「ただそれだけのこと」だ。
でも、本当残念だったんだよ。こんな文章書いちゃうくらいには。
- アーティスト: Lily Chou-Chou
- 出版社/メーカー: ORS
- 発売日: 2008/11/26
- メディア: CD
- 購入: 1人 クリック: 23回
- この商品を含むブログ (15件) を見る