ブレーキは効かない。

 帰り道の車内、時刻はまもなく19時になろうかというところだった。ずいぶんと日が長くなったけれど、さすがに19時ともなれば辺りはもう暗い。ランダム再生に設定しているオーディオからはBjorkのVespertineの何曲目かが流れている。少し向こうの信号が黄色に変わったのを見て、ブレーキペダルに足をかけてじわりと踏んでいく。車が少しづつ減速して停止線の手前でゆっくりと停止する。その手応え(というより足応えか)とその状況が、ふいに記憶を呼び起こした。ここ数年の間にときおり見る夢、眠る間に見るあの夢だ。

 夢の中でも僕は車を運転している。赤信号を確認してブレーキを踏むのだけれど、ブレーキの効きが極端に悪い。必死にブレーキを踏み込んで、なんとか前の車にぶつかることなく停車する。運転をすぐにやめればいいのに、僕は停車のたびにブレーキをぎりぎりと踏み込み、すんでのところで止まって安堵の息を吐く。細部はいろいろと異なるけれど、基本的にはそんな夢だ。

 なんとも言えない気持ちになった。お世辞にもいい夢とは言えないし、運転中に思い出したい内容ではない。けれども、一番のひっかかりはそこではなくて、その夢を見ていたことを今まで思い出せなかったことだった。つまり、そうした夢を見ていたことにその時気づいたのだ。どうやらその夢を見て目覚めると、どんな夢を見たのか、ないし夢を見たことそれ自体を忘れてしまっていたらしいのだ。それも、一回ではなく、何度もだ。なんだかなあ、という気持ちになる。効きの極端に悪いブレーキペダルを目いっぱいに踏み込んでゆく、あの嫌な感触を思い出す。ブレーキペダルを踏んだ足に少しだけ力が入った。

 家に帰って、ふと思いついて検索してみる。「ブレーキがきかない」と打ち込むと、予測候補に「夢」と出てきて笑ってしまう。よくある夢らしい。夢診断が書かれたいくつかのサイトをざっと見てみるといくつか説があり、おおざっぱにまとめると、ひとつは『自分自身(ないしは人生の進む方向へ)のコントロールが効かない、制御ができない心理』、もう一つは『精神的・肉体的に極度のストレスをためている』というものだった。

 僕は、夢診断の類は占いのようなものだと思ってあまり信用していない。感情のコントロールは難しい技術だし、人生のコントロールに至っては困難を極める。そういう意味では、感情も人生もなかなかままならないもので、コントロールが効いていると言い切るのは難しい。後者のストレスとなれば尚更だ。実際僕も、三月に入ってからすこし疲れていた。もう少し正確に表現するのなら、色々なことものに対していまひとつ気力が湧かないでいた。どうにもしゃきっと、ないしはきりっと、もしくはぴりっとしない。それを疲れていたと表現するのが適切なのかは分からないけれど、そう大きくずれてもいないだろう。その疲れの理由はいくつかあるけれど、どれもがどうにかできる種類のものではなく、そしてだからこそ疲れていた。とはいえ、生きていればうまくいかないことも嫌なこともあるし、ある程度のストレスはあって当然、疲れることだってもちろんあるだろう。そしてそれは、現状、決してどうにかなってしまうような強度のものではないように思えた。けれど、夢診断によればそれは「極度のストレス」にあたるようだ。つまり、現代社会を生きる多くの人は、おそらく夢の中でブレーキが効かない。

 夢に色々とそれらしい理由をつけるのは簡単だけれど、僕自身が車を運転する夢を見る理由はもっと単純だと思う。転職してから仕事中はほぼ毎日、今までとは比較にならない時間車を運転しているからだ。ここ数年の間に見るようになったというのも転職した時期と一致する。ただ、ブレーキが毎度毎度効かないというのは気になるポイントではあった。多くの人が同じようにブレーキが効かないというのもまた不思議だ。夢診断の言うストレスや自身の制御不能ではない、なにか別の理由があるんじゃないだろうか。そんなことを思いながら検索結果を眺めていると、2chまとめサイトの書き込みにこんな旨の言葉があった。

 『ブレーキが効かないのは、寝ていて足がつかないから』

 思わず膝を打った、という言葉はこんなときに使うのだろう。実に納得感のある言葉だった。

 この説が本当に正しいのかどうかは分からない。けれども、僕はこの説を全面的に採用しようと思った。このことに関して言えば、別に正誤なんてものはどうでもいいのだ。多くの夢診断サイトに書いていたように、僕は今自身の感情や人生の進む方向をコントロールできていないのかもしれないし、精神的・肉体的に大きなストレスをためているのかもしれない。そちらが正しいのかもしれない。足がつくつかないにかかわらず、通常であれば常にブレーキが効くのかもしれない。けれども、その正誤を僕はすぐに判断ができないし、する必要も特に感じなかった。こういうことは、確からしいと感じた方、都合のいい方を採用してしまえばいい。それで、なんの不便も支障もないのだから、それでいいのだ。

 僕は三月に入ってから、疲れている。うまくいかないことも、嫌なことも、腹の立つことも、ストレスもある。たぶん、次に夢で見る車のブレーキも効かないだろう。けれどそれは、僕の心理状態云々などはまったく関係なく、夢を見る僕の足が必死にブレーキをかけようと宙を踏みつけているせいなのだ。

 実に馬鹿らしくて、間抜けで、愉快だ。

2014.12.27 雑記

 年末年始の空気というのが余り好きではない。忘年会が増え、忘れていたような友人から連絡があり、テレビプログラムが特別番組だらけになり、忙しくクリスマスの飾りから正月仕様に切り替わり、街がどことなく慌ただしくなる。あの年末年始特有の空気は、折角の正月休みをどこか落ち着かない気分にさせる。実際、年始になると親戚などが家にやってきたり、挨拶に行かねばならなかったりと、現実的に落ち着かないところもあるのだが。

 年末年始は、分かりやすく皆に共通する一つの節目の周辺だ。節目を重要視するのは今に始まったことではない(むしろ、過去の方が節目はより重要であったように思う。今年も無事に一年を過ごせた、というその「無事」がよりリアルであった、とか、共同体の結びつきの諸々であったりとか)。実際、そうした節目みたいなものがあるほうが日常が締まるし、その節目にかこつけて人々がまた結びつきを取り戻したり、と節目が担う役割は色々とあるのだろう。ただ、現代に生まれて、ほとんど親戚づきあいもなく、あまり節目を重要視しない私にとって正月という節目イベントはどうでもよいものである。そういう意味で、自分自身にとって重要でない節目に周囲が慌ただしくなる、というその辺のギャップが年末年始の空気が好きでない、に繋がっているのかもしれない。自分だけが素面の飲み会でふと冷静になった瞬間、みたいな感じがつねに薄くつきまとう感じ、なのかもしれない。かもしれないかもしれない。

 今年も年末年始がやってくる。そういう意味では、「今年も」とさらっと言えることは幸いな事かもしれない。テレビをつけず、家から出ず、ぐだぐだと映画を観たり本を読んだりしながらゆっくりと世間と隔絶されて過ごす正月、というか長期休みが理想だけど、なかなかそうもいかないので、ままならぬことよな、と思う。もっと結びつきの強かった過去に生まれなくてよかったなー。

6月28日、雨。

 今日の雨はじつに梅雨らしい雨だ。「しとしと」という擬音をあてるなら今日のような雨だろう。長い間ゆっくりと淡々と降り続き、静かに、けれどもしっかりと、満遍なく世界を濡らすような、そんな雨だ。

 梅雨らしい雨、と評した今日の雨だけれど、事実としての梅雨らしい雨と、自身が想像するそれとが同一であるかは自信がない。少なくとも、局所的に猛然と降り注いで地下の立体交差を水没させるような雨よりは、今日のような雨のほうが梅雨らしいと感じるし、そういう人も多いだろう。だけれども、どうにも自分自身の季節感というのが実に曖昧なものであるらしいことを近年思い知っているため、実際には局地的豪雨が六月に降ることも十分に「梅雨らしい」かもしれない(余り記憶にないだけで、梅雨にそうした雨が降ることは珍しくないのかもしれない。あまりそうは思えないけれど)。私にとっての「夏」がそうであるように、「らしさ」というのはたいていの場合誇張され、余計なものをそぎ落とし、どんどん純化していってしまう。ただ、それを前提とするのなら、やはり今日の雨はじつに梅雨らしい雨であるように思える。

 今住む部屋は、掃き出しの窓を開けているとよい雨音がするのだけれど(周囲の建造物や地面、道路との距離などが雨音を「よく」するような形で、適当に配置されているのだろうと思っている)、梅雨らしい雨というのは、そういう意味で言えば素晴らしいものだ。深夜、しとしとと降る柔らかな雨音を基調に、自転車置き場のトタン屋根や金属製のベランダの手すりに当たる高い音や、排水溝を流れる水音、樋などから落ちる水滴が水たまりに落ちる音なんかが絶妙に重なる。時折、濡れた路面を車が走る音や、通行人の足音、遠く微かに響く救急車のサイレン、犬や猫の鳴き声が加わる。音の種類は多く、それでいて、静かだ。

 今夜は、静かな、雨の夜だ。

 ソファに横になってなにをするでもなく雨音を聞いていると、通りを歩く誰かが、いつかどこかで聴いた歌を歌いながら通りすぎていった。段々近くなった歌声が、少しづつ遠ざかり、雨音に混じって消えた。こんな雨の夜に、歌を歌いながら外を歩くことは、なんだかとても素敵なことであるように思えた。やろうと思えばすぐにでもできることだけれど、きっと実際にそうする人は多くないはずだし、自分自身もそうしないだろうと思った。

 雨は懐かしい記憶を持っている、と画面の向こうである人が言った。いつか聞いた曲を他の誰かへ降らせることもある、とも。その人がそれを比喩として用いたのか、それとも純粋に文章の通りに思って書いたのかを知るよしはない。けれども、それは確かにその通りだな、と思った。今日、雨が降っていなければ窓の外の音にそこまで耳を澄ませていることはなかったのだ。そうだとするのなら、いつかどこかで聴いたあの曲は、その懐かしい記憶は、やはり雨が降らせたものなのだろう。雨が、雨音に忍ばせてこの部屋に運んできたのだ。

 目をつむり、耳を澄ます。雨音が続いている。

 あの歌は、誰の、なんという曲だったかな。記憶を探るけれど、思い出せなかった。