色彩をもたない。

 黄金週間も残すところ一日となったが、どうにも今年は長い連休だったわりにあまり休んだ気がしない。理由は何となく分かっている。丁度その連休の真ん中にほとんど仕事と変わらない催しがあったからだ。それは決して一日を潰すようなものではなかったけれど、一日の予定をそれに合わせて色々と都合をつけねばならなかった。その一日はまるで鉈を振り下ろすみたいに、連休をぶっつりと切断した。だから、長い連休がその実態よりも短く感じられているのだろう。(ただ、それでも連休は素晴しいものだ)

 今日は午前中にちょっとした用があって都会に出た後、家に戻って一通り部屋の掃除をした。洗濯ついでカーテンやクッションカバーなどもすべて洗い、床に雑巾と掃除機をかけ、洗面台を磨いた。簡単な夕食をつくって、発売初日に地元の本屋で購入したまま置き放していた村上春樹の新刊を読んだ。本の感想は今のところ書く気はない。いずれ書くかも知れないし、書かないかも知れない。ただ、ソファでその新刊を読みながら、ふと顔をあげて、嫌な感情に襲われた。それは割と馴染みのある種類のものだったけれど、読んでいた本がきっかけになったのは間違いない。

 自分には突出して情熱をかたむける「なにか」がない。それを、ふとしたとき思い出す。それはたとえば「あるアイドルが熱狂的に好きだ」とか「情熱を傾ける趣味がある」とかそういうようなことだ。そういった突出した「なにか」。自分はそれを持たない。それは、傾けるべき対象がない、というよりも自分がそうした情熱をもっていない、というほうが正確であるように思える。そして、時にそれが、どうしようもない不足のように感じられることがある。それが、どうしようもない欠陥のように感じられることがある。そしてそれは次第に「自分はなにもかもが中途半端だ」といいう感情に発展する。

 当然、すべての人がそうしたなにかを持っているわけではなく、それを持たない人も多くいるのだろう。それは単純にそういうものなのだから、そうなのだ。そうだからよいとか、わるいとか、そういうものではない。それは十分に理解しているし、普段はそのように諒解もしているつもりだ。けれども、ふとした瞬間、自分はなんと寂しい人間なのだろうと思ってしまう。なんと空虚なのだと。なんと中途半端なのだと。好きなものは数多く上げられる。けれど、その強度はどうだろうか。それはとても脆いのではないか。本当にそれを好きと言えるのか。好きだ。すきだけれど。そしてそんな感情の強度だから、結果としてすべてが中途半端なのだ。

 そうした自分に反駁することは容易い。けれども、そこに感情が追いつかない。色彩を持たないと悩む彼が、自分にはとても鮮やかに色づいて見えた。もしも、彼の目にうつったなら、おれは、どう見えるのだ。

 ないものねだりだと、分かってはいても。

 よくないな。とてもよくない。