読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

深夜三時のタルトケーキ

創作

 砂漠だった。時刻はまもなく午前二時になろうかというところだ。僕は砂漠を歩いていた。どうやら砂漠を越えた先を目指しているようだった。僕はここではないほかの場所にいる可能性もあったのだが(例えば山岳地帯であるとか)、僕は砂漠地帯にいるように決められた。だから、砂漠にいて、その砂漠を越えようとしていた。人生は長い。生きていれば想像もつかないようなことが色々と起こるものだ。そうした想像もつかないようなことの一つとして、深夜に砂漠を越えようとすることがあってもおかしくはないだろう。

 砂漠というと見渡す限り砂、砂、砂、というような場所を想像するかもしれないが、砂丘に登って周囲を見渡すと、進む先に巨大な岩岩が連なっているのが確認できた。岩の一つ一つは高さにして大体5mから15m程度だろうか。点々と連なる岩々は次第に数を増し、遠く岩石でできた山脈まで続いている。地元の人間はこの場所を「月世界」と呼ぶらしい。大気のほとんどない月では、昼間には100度近くあった温度が、夜には-160℃まで下がるという。月とは比べものにならないが、この土地でも場所と季節によっては昼夜で50度近くの気温差がある。砂と岩だけの景観に、昼と夜の温度差。なるほど月世界とは上手いことを言ったものだ。現在気温は恐らく0度を下回るだろう。寒さはずいぶん堪えたが、その分、星は全天から降り注ぐようだった。下弦の月を丁度半分にしたくらいの月が低い位置に浮かんでいるが、月も恐ろしく明るい。月世界を照らす光源が月というのはなんだか不思議な気分だ。

 なぜ砂漠をこえようとしているのかも、その越えた先に何があるのかもまったくハッキリしなかったけれども、僕はなぜか無性にタルトが食べたかった。それはもうくっきりハッキリと明確に、タルトだ。洋菓子の、タルト。それも色んな種類のタルトをたくさん食べたい。フルーツののったやつがいい。苺やなんかのベリー類、洋なし、リンゴ、モモやメロン、ブドウ、イチジク、オレンジ等々。そうした果物がのせられたタルトが種々並べられているところを想像する。例えば、タルトを専門に扱うケーキ屋。ショーウィンドウに並んだ各種フルーツタルト。僕はショーウィンドウの裏から、カットされたタルトを一つずつ丁寧に皿に盛りつけ、テーブルに並べていく。すべてのタルトをテーブルに置き終えたら、まずはその夢のような光景を目で楽しみながら、食べる順番をじっくりと検討する。先に甘い果物のタルトを食べてしまうと、酸味の強い果物の甘みが楽しめなくなってしまうからだ。けれども僕は、順番をじっくり考えていられるような我慢強い人間ではない。結局一番自分の好きなタルトを選んで、そのまま手でつかむ。ピースの先端から大きく一口。とても美味い。食べ終わらない内から次のタルトに手を伸ばす。また一口。次のピース。そうして、並べられたフルーツタルトを次々に食べていく。つまり、色んな味のタルトを食べたいのだ。好き放題に。けれども、ここは月世界と呼ばれる砂漠で、時刻は午前二時だ。ここにタルトはないし、タルトを手に入れることもできない。けれども、もしもいざ目の前にたくさんのフルーツタルトを並べられて「君の好きなようにたべていい」と言われたとしても、僕はそういう食べ方をしない。しない、というよりも、きっとできないだろうな、とも思った。

 できもしない、ないし、するつもりもないことを「したい」と言うのはなんと気楽で楽しいことだろう。僕は月世界を黙々と歩きながら思う。こうしたい、ああしたい、という欲求は数あるけれども、実現しなくてよいのならそれはそれは気軽だ。実現するためにかかる種々のコストは何一つ支払う必要もないし、実現に伴うデメリットについても考える必要がない。僕は実現することがないと分かっているから「たくさんのタルトを一口ずつ食べたい」などと気軽に宣うことができる。もし僕がこの欲求を本気で実現しようと思っていたら、きっと「したい」と口にはしない。例えば、この欲求を満たすのはそう難しくない。青山あたりの評判の良いケーキ屋に行き、「フルーツタルトと括られそうなものをすべて一つずつください」と店員に頼んで買い求め、地下鉄に乗って家に帰り、テーブルに買ったタルトのすべてを並べ、好きなようにタルト食べればいい。実に簡単だ。けれど、それは僕にとって「気軽」ではない。僕は間違いなくそんな大量のタルトを食べきることはできない。恐らく結局は「残して、捨てる」ことになるだろう。「残して、捨てる」のはまったく気軽じゃない。けれども、本気で実現したいと思っていないなら、残ったタルトの最期については考えなくていい。ケーキを買いに行くことも、ケーキを持ち帰ることも、並べることも考えなくてよい。好き放題に食べること、つまりは、タルトの美味しいところを一口ずつ囓る、一番素敵な瞬間だけを思えばいいのだ。本気で実現することのない希望を話すのは、考えるのは、いつだって楽しい。

 月世界は静寂そのものだった。雪が音を「吸う」のと似たようなことが、砂でも起こるのだろう。淡々と砂を蹴る自身の足音のほか、音は存在しないかのようだった。ふと立ち止まると足音も消え、周囲は、しん、と静まりかえる。音のない月世界は、いよいよ空気のない月そのものと似て、もしかしたら次第に空気すらなくなるのではないかと少しだけ息苦しいような気持ちになる。一人は気楽だったけれど、音のない月世界を一人歩いていると、世界にたった一人取り残されたような気がした。それはありえないことだったけれど、僕はありえないと断言できなかった。砂漠を行くキャラバンはよく歌を歌うという話を聞いたことがある。それが本当かどうかはわからないけれど、どこか不安を誘う、耳の痛くなるような深夜の砂漠の静けさにあって、歌を歌うのはとても自然なことのように思えた。音楽があればなあと、ポケットの中で眠る電池切れの音楽プレイヤとスマートフォンを恨めしく思い出す。生きていくのに音楽は必ずしも必要ではないけれど、音楽が、生きていくことの助けになることは多々ある。キャラバンに習って僕も歌を歌おうかと思ったけれど、きっと一人では虚しさを増すだけだろう。

 夜の黒を埋め尽くすような輝く星のこと、冴え返る月のこと、砂が音を吸うこと、砂漠の夜の寒さのこと、砂の一粒一粒や、連なる巨大な奇岩の形、遠くに見える山脈の影がどんなだったか。タルトが食べたいこと、実現しない願いの話が楽しいこと、音楽の必要性について。誰かに伝えられたらな、と思う。でもきっと、それは今僕が一人だから思うことだ。実際に伝えられる状況にあったら、きっとそうは思わなかっただろう。きっと僕は伝えたいのではない。実際に伝える伝えないではなくて、伝えられる、という安心が欲しいのだ。そして、そう思ったことまで含めて、君に話せたらいいな、と思った。例え、実際には話さないとしても。僕は防寒と砂塵対策に巻いたシャーシュと呼ばれるターバンの布を鼻まで引き上げて空を見上げる。吐いた息が白く残って、やがて消えた。

 しばらく足下ばかりを見て歩いていたのだが、ふと視線を上げると、視界の先の一際大きな奇岩——周囲のそれと比べて倍はありそうだった——の辺りでちらちらと影が揺れていた。焚火、いや、あの光量だとランプか蝋燭の灯りだろうか。その巨大な奇岩は、円錐を地面に突き刺したような形をしていた。ただ、円錐の底面に当たる部分が妙に広く、円錐と言うよりも漏斗という方が正確かもしれない。灯りはその根元で揺れているようだが、根本付近には5mほどの岩々が複数集まっており、灯りの発生源をここから確認することはできなかった。おそらく、人だろう。この辺りで火を使う生物をほかに知らない。進行方向はその奇岩の方向だが、さてどうしたものか、と僕は考える。もしも盗賊の類だったらことだ。しばらくあれこれと考えてみたのだが、折角なので見に行こうと決めた。考えている内に、仮に盗賊でも構わない、という気分になっていた。というのも、恐らくこの砂漠に盗賊はいない。仮に盗賊がいたとしても僕とは出会わない。そういうふうに決まっているはずだからだ。僕が深夜にこの砂漠にいるように。

 奇岩の周囲の岩々を縫うように進んだ先に、灯りの発生源はあった。巨岩の一つ手前に位置する岩の根元に人がいた。正確には、人と、ロバが一頭。僕はその人の左手側の岩影から様子を窺う。その人は、腰掛けるのに丁度良さそうな石に座って本を読んでいた。地面には薄手の手織り絨毯がしかれており、そこにいくつかの手荷物とポットが置かれている。その人は僕の存在にはまだ気付いていないようだった。旅人だろうか。フードのついた外套を羽織っていて、よく姿は分からない。もしかしたら地元の人かもしれない。ここは待ち合わせにはおあつらえ向きの場所だ。声をかけてみようと僕は近づいていく。驚かさないように気をつけなければいけない、と思った矢先、その人がページを捲る手をふと止めてこちらを見た。フードと逆光のせいでよく顔は見えない。僕はそっと立ち止まる。ここでこれ以上距離を詰めると警戒されてしまうかもしれない。

「こんばんは」

 僕は顔を覆っていたターバンを首にずり下げてから声をかけるが、返事はない。その人は顔をこちらに向けたまま、首元のコードを引っ張った。フードの闇の中からイヤフォンが現れる。そうか、音楽を聴いていたのか。それは羨ましい。

「不躾で申し訳ないとは思うのですが」

 僕はそう切り出した。ここまで歩いてくるまでに、そこにいる人(ないしは人たち)になんと声をかけたものかを考えていたのだ。『不躾に申し訳ない』ことなら言わない方がいいとは思うのだが、頭に浮かんだ言葉は余りに突拍子もなく、にも関わらず、どう考えてもそう声をかけるのが一番適切であるように思えたのだ。

「タルトをお持ちでしたら分けていただけませんか?」

 圧倒的に常識はずれなこの問いかけに、その人がどう答えるのかは分からない。それは決まっていないことだし、僕が決められることではない。だから、ここから先のことについて、僕は語ることができない。けれど、きっとこの人はタルトを持っている。それは、あらかじめ決められたことで、そしてきっと僕はそれを知っていたのだろう。

 時計を見なくても時間は分かる。時刻は深夜三時。甘い物を食べるには、丁度良い時間だ。