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自分にとっての村上春樹

 村上春樹作品を初めて読んだのは2005年だった。夏の終り。大学3年、21歳になる少し前だ。「村上春樹」という世界的作家の名前は知っていた。けれど、大学三年の手前までの自分の読書傾向はミステリーやホラーに偏っていて、村上春樹のような「文学作品」ぽく見える――少なくとも当時の自分にはそう見えていた――作品には中々触手が伸びなかった。

 当時、こことは違う場所でブログを書いていたのだけれど、そこで知り合った人の一人に「香さん」という一つ年上の女性がいた。香さんは、音楽、本、映画、ファッション、アートと、(時と場合によっては「サブカル」と揶揄されそうな方面に)兎に角広くアンテナを張っていて、その上それに伴う知識と行動力のある人だった。中でも雑誌に関してはちょっと突出したものがあってそれが高じて出版社に就職していたと思う。ブログの文章とコメント欄でのやりとり程度だったけれど、その文章に見える人となりは、誠実で、真っ直ぐで、真面目で、努力家で、だけど飾らないさっぱりとした、前向きな人だった。今思えば――この言い方は失礼なのかもしれないけれど――とても能力の高い、頭の良い人だったと思う。怠惰で面倒臭がりで行動力のない後ろ向きな自分にとって、香さんは尊敬に値する年上の人だった。だから、香さんの好きだ、というものに勝手に色々と影響を受けた。もし、香さんとあそこで知り合っていなければ、きっと読んでいない本や、聞いていない音楽が沢山あっただろうと思う。村上春樹も、その「読んでいなかったであろう本」のうちの一つだった。

 「何か読む本を」と思って立ち寄った書店で、POP広告に書かれた「村上春樹」の名が目に入った。確か、「東京気譚集」が発売したばかりか、出る直前くらいだったと思う。香さんが村上春樹が好きだ、と何度かブログかmixiで書いていたことを思い出して、折角の機会だし一冊読んでみるか、というくらいのつもりで講談社文庫の「ま行」を探し始めた。選んだのは「ノルウェイの森」。理由は二つ。一つは、知っているタイトルだったから。もう一つは、表紙がシンプルで潔かった(2005年時点での文庫は新版になっていて、上巻が赤地に緑の文字、下巻がその逆だった)。ただそれだけ。あらすじも読まずにレジへ持っていった。村上春樹の作品ならなんでもよかった、とも言える。けれど、この選択は自分にとってとても大きな選択だった。このとき手に取った作品が、もし「ノルウェイの森」でなかったら、きっと今ほど村上春樹作品を好きになっていなかったと思う。

 読み終わったときのことを、今も覚えている。中央線の車内。9月の頭、規模の大きな台風が関東に接近していて、空は重苦しく、不穏な雰囲気だった。自分が下車する駅はもうとっくに通り過ぎていたけれど、残り少ない物語を中断せずに読みたいという欲求が圧倒的に勝っていた。本を閉じて、しばらく途方に暮れた。いくつもの何でもないような言葉が、物語中の出来事が、その結末が、静かに心を掻き乱していた。落ちてきたいくつもの言葉が波紋を広げ、その波紋同士がぶつかり波を立てて揺れていた。その所為で、一つ一つの波紋を切り分けることができずに、混乱していた。どうしてこんなにも揺れるのか、分からなかった(今も理由ははっきりとは分からない)。

 それから――つまり2005年の夏の終わりから秋にかけて、村上春樹の作品を読み漁った。10月に入って大学が始まっても、学校に行かず村上春樹を読んだ。幸いと言うべきか、不幸にもと言うべきか、村上春樹の著作は2005年時点でかなり数があったので読む本に困ることはなかった。スプートニクの恋人ねじまき鳥クロニクル世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド1973年のピンボール風の歌を聴け羊をめぐる冒険、ダンスダンスダンス……短編も含めて村上春樹を読んでは、訳も分からずどこか寂しかったり苦しかったりしていた(理由は今ならなんとなく分かる)。どれもこれも、読む自分の中に何かを残して、揺さぶるような作品ばかりだった。

 あれから今まで、新刊が出ればそれを読み、今までの作品をことあるごとに読み返した。今までで一番読んだ作家は誰か、と問われたら間違いなく村上春樹だと思う。けれど、「好きな作家は?」と聞かれたときに少しだけ戸惑う。「村上春樹」と答えることは決して嘘ではないし、間違いではない。けれど、それは「正確」ではない。好きな作家を尋ねられる度そんなもやっとした気持ちをどこかに感じながら「村上春樹が好きです」と答えるのが常だった(まーそもそも作家を好きだということに抵抗があるのだけど)。

 そんな折、松岡正剛の千夜千冊をネットで読んでいてある文章に出会った。J.G.バラードの「時の声」についての回だ。松岡正剛J.G.バラード作品をこよなく愛しており、わざわざイギリスに渡りバラードの家を尋ねるほどだったらしい。けれど、松岡正剛は千夜千冊でこんな風に書いている。

 実際にロンドンの郊外に住むバラードに会いに行ったときには、すでに全作品を読みおわっていたが、そしてそのなかには『結晶世界』のように、ますます惚れなおしたくなるような作品もたくさんあった。そうではあったけれど、正直いうと、やはり『時の声』の強烈なインプレッションが、いつまでもぼくの気分を高揚させつづけていた。
 ぼくはおそらく、目のさめるような女の子に一目惚れをするように、『時の声』のバラードに恋をしたのである。その後、バラードの作品がいかにすばらしく見えようとも、それはその女の子が衣裳を変えるたび、春を迎えるたびに、ますますすばらしく見えるということを意味していた。つまり同じ女の子だった。
 だから、わがバラードは、あくまで最初に一目惚れをした『時の声』のバラードだったのである。
千夜千冊 第八十夜 『J.G.バラード「時の声」』

 この文章はちょっと上手すぎると思うのだけど、「時の声」を「ノルウェイの森」に、「バラード」を「村上春樹」に置き換えてくれたら、これはそのまま自分の気持ちを代弁してくれている。「村上春樹が好きです」と答えることになんとなく違和感があったのはこれが理由だった。自分にとっての村上春樹とは、「ノルウェイの森」の村上春樹なのだ。

 もし、最初に手に取った村上春樹作品が「ノルウェイの森」でなかったら、きっと今こんなにも村上春樹を好きになってはいなかったと思う。

 僕は気が向くと書棚から「グレート・ギャッツビイ」をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。

村上春樹ノルウェイの森(上)』(講談社文庫)

 ワタナベが「グレート・ギャッツビイ」を何度も読み返していたように、自分も「ノルウェイの森」を何度も読んでいる。そしてまた同じように、どのページを開いても、ただの一度も失望させられることはなかったし、一ページとしてつまらないページはなかった。