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雑記

 最近前触れなく頭痛になることがあり、そういう時は途方に暮れて、鎮痛剤が効くのをじっとじっと待つのですが、その間、ずきんずきんと不定期に痛む右目の奥の痛みがどこから来るのかを考えて、右目の奥、脳味噌との間に誰もしらない痛みを引きおこす何かがあるんだろうかと想像したりするのです。そんなものはないと皆様おっしゃるでしょうが、それはもしかしたらあるのかもしれません、誰にも知られずに、あるのかもしれません。

 その右目と脳味噌の間を便宜的に月と呼ぶことにすると、月は多分膨らんだり縮んだりを繰り返しているに違いないです。何か原因があって月が一定以上膨らむときっと痛むのではなかろうかと想像しまして、だとするのならば、最近のこれは前触れすら感じる暇も与えずに急に月が膨張したのかもしれません。

 ならばどうして月は膨らむのですか。月はどうして膨らんだり縮んだりするのですか。これだけのことが明らかにされて白日の下に晒されひんむかれ転がっているこの今に、もし月が誰にも知られずにそこにずっとあったのならば、きっと想像もつかないような、まったく論理も物理もなんやかやを受け付けぬよう寄せ付けぬような孤独でもって膨らみ縮み伸び縮みをしているのに違いないので、その理由を知ることはかないません。

 そういうことをつらつらと考えていたらばどうしようもなく悲しくて、哀しくて、時に泣きたいような気持ちになって、それでも涙はこぼれないし、やはり私は途方に暮れるのです。

 途方に暮れる私の思考はそれでもそれでも留まることを知らず相も変わらず好き放題に伸び飛び膨らんで行くのですが、ふと思うに月とはもしや心なのかもしれません。誰もが持ってる所在不明の心と呼ばれる存在が、私の場合は目玉と脳の間にいるのかもしれません。ですがそれは余りにロマンチックに過ぎる上、これだけの回数頭痛になり、その上前触れなく急に痛むことを思えば、その月と呼ばれる心は余りに無防備に何かを、膨らんでしまうような何かを吸収してしまっているのだと思うほかなく、それはやはり少しだけ私を哀しい気持ちにするので、月は心と違うと私は言うのです。やはり月は空に浮かぶ月であり、心はきっと私の脳味噌にある筈です。それは一種の信仰に近いものですが、そう私は信じるのです。

 けれどもし、私の中にもしも月があるのなら、きっとこの痛みは月の孤独でしょうか、主張でしょうか、叫びでしょうか、だとするのなら、私だけがそれを知っているのです。この痛みを私は言葉にして誰か他人に伝えることができますが、それでもこの痛みは他の誰でもない私だけの、文字通り唯、唯一私だけが感じる、共有不可能な痛みなのです。だから、私の中の月を、私の目玉と脳味噌との間にある月を、私だけが、この痛みで以て肯定してやらなければ、などと想いながら、どこか遠くに秋の虫の声を聴き、終り行く夏を、秋を思うのでした。

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自分で書いたツイート見てふと思い立って書いた雑記以上物語未満のこういう文章をどういうカテゴリに入れていいのか迷う。

2010/09/08 追記

ちょろっと加筆修正した。