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1973年のピンボール読んで思ったこと

書籍

 twitterを登録したまま放置してたのだが、以前のブログが消えたのも相まって最近頻繁に利用してる。

 個人的にtwitterの面白さは

  • 普段ならまず話せない人と話せること
  • タイムリーな話題に対する声が見えること

かなーとか思ってる。

 自分は基本的に文章をだらだら書きがちなので「140字以内にまとめて解り易く言いたいことを書く」というのは、「簡潔に」解り易い文章を書くためのいい訓練になるかもしれない。


 さて。
Twitterと関連して本題。

 この間、村上春樹の「1973年のピンボール」を再読した。その小説の頭の方に書かれた言葉に思うところがあって、今日は記事を書いている。

#『1973年のピンボール』そのものについてはwiki先生に聴いて頂ければ、と思います。
# 個人的には『ノルウェイの森』読んだ後のが面白い気がします。関係あるのかどうかは知らんけども。
# また、以下引用文はすべて、『1973のピンボール』からです。
#(参考:ウィキペディア『1973年のピンボール
# http://ja.wikipedia.org/wiki/1973%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB)

 この小説は、『見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった』という「僕」の言葉から始まる。(村上春樹の描く主人公は大概どっかしら破綻してるな)
 そんな「僕」は沢山の人――例えば金星人とか――から見知らぬ土地の話を聞いたらしいのだが、その感想としてこんなことをいう。

理由こそわからなかったけれど、誰もが誰かに対して、あるいは世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた』

以降小説の内容それ自体は完全に脇に追いやるけど、この言葉には「確かに」と頷きたくなる何かがあった。

 その言葉に表現されるようなことが、このネット上には沢山あるように思う。例えば今まさに書いてるこのブログもそうだろう。他にも、初めに話してたツイッター。ニコニコ生放送やなんか。世界での例は実感を伴わないので挙げないけれど、少なくともここ日本では様々な一般人の表現物が溢れてる。(文章だったり、絵だったり、音楽だったり様々なもの) それら全てが上の言葉に当てはまるとは思わないけれど、その数が少ないともまた思えない。

 仮に。そうして表現する人たちが何かを伝えたがっているのだとしたら。

 それは何故なんだろう。

 そして何を伝えようとしているのだろう。


 何を伝えたいか。それはには、当然人それぞれ個人的な理由があるに違いない。それら全てが同じだなんてちょっとあまりにも過ぎる。けれど、それについて考えるとき、つきつめていくと、どうしてもいつも「孤独」を思ってしまう。完全に理解し合うことの出来ない、人間の孤独を。

 例えどんなに完全なる理解を得られないと嘆いても、例えそれが事実なのだとしても、人はそれでもきっと伝えずにはいられないのだ。
 だって、独りは、寂しい。
 だから、人は自分を理解して欲しくて、色んな手段で、人は自分を表現してるんじゃないか。

……なんて、何の根拠もないことを考える。
それはきっと、自分自身の根底がそこにあるからだ。

多分。


 日本中の至る所で、誰かが、何かを、誰かに・世界に伝えよう、って今日も何かを表現している。『理由こそわからな』いけれど、それは事実だ。

 日本の東京に住む自分も、何かを、誰かに・世界に伝えようと表現する。

 誰かに対して。

 あるいは世界に対して。

 文章で。

 時には音声で。

 そして時には音楽で。


 ハロー、ハロー。