Henning Schmied「Walzer」

 Henning Schmiedtの新しいアルバムが出た。発売日に届くようにAmazonで予約をしていたのだけれど、結局届いたのはその翌日だった。誰かの新譜がでることを楽しみに待ったのは、久しぶりな気がする。そしてその新譜がとてもよかったのも。

 アルバムについての概要を、公式レーベルのホームページから引用する。

『Schnee(=雪)』『Spazieren(=散歩)』『Wolken(=雲)』と傑作ソロピアノ作品をリリースしてきたピアニストHenning Schmiedtがワルツにインスピレーションを受けてレコーディングしたというニューアルバム。
ワルツのリズムを軸にして、ステップを踏むように、流れるように瑞々しいメロディーの数々が舞い踊る。あるカップルのために書かれたというウェディングソング「hochzeitslied」、前回の来日公演でも披露された「fernblau」など、過去3作で外へと向かっていたHenningが、ピアノの部屋に戻ってシンプルな旋律の強さに向かい合って作ったという、切なくノスタルジックなアルバムに仕上がっています。

flau records/walzer http://flau.jp/releases/51.html

 

 過去の作品も素晴らしい作品ばかりだけれど、今回のこのアルバムはまた一段とよい作品に仕上がっている。まず、聴いてもらうのがなによりだと思う。

 

 

アルバムから一曲。

 

 音楽を言葉で表現するのはとても難しい。厳密には不可能だろう(そもそも、言葉でなにかを完全に説明することはできない)。けれど、それでも言葉にしたくなる。なんて優しい音なんだろう。そっと寄り添うような、その温もりまで感じられるような。

 

 これは飽くまで自分がそう感じる、という話でしかないのだけれど、このアルバムの曲はどれも、とても内的でパーソナルなものに感じる。紹介文にあった『過去3作で外へと向かっていたHenningが、ピアノの部屋に戻って』ということがそういう意味であるのかは分からない。でも、このアルバムの曲は、大切な人や、大切な時間や空間、愛すべき日常を思って奏でられているように思えるのだ。だって、ピアノの一音一音に愛が溢れている。

 

 音楽を言葉にしようとすることはある意味では愚かなのだろう。でも、このアルバムをとてもよかったと思ったことを、聴いて感じたことを、書いておきたかったし、誰かに伝えたかったのだ。

 

Walzer

Walzer

 

 

 今年は「夏の終わり」と呼べるような期間がないままに夏が行ってしまった。自分の中での「夏」は八月一杯で終わりだ。それ以降の、夏が少しづつグラデーションを描きながら秋に変わっていく微妙な期間(秋彼岸が終わるまで辺りだろうか)を、夏でもなく秋でもなく、「夏の終わり」と呼んでいる。暦的な正確さは置いておいて、初秋とか晩夏というのも、実際の気温等々から考えればこの辺りを指してよさそうなものではあるが、個人的にこの時期は「夏の終わり」と呼ぶのがしっくりくる。そういえば「残暑」という単語があるが、「残夏」という表現がもし許されるなら(辞書には存在しなかった)それもよい気がするな。まあ、とにかく、今年はそうした「夏の終わり」と呼べそうな期間がないまま、雨やら台風やらが続いて、あっというまに夏が死んだ。そして、それをとても残念だと思っている。一年で一番好きなのは五月だけれど、一年で一番切なくて美しいのは、きっと夏の終わりだと思う。異論は認める。どうでもいいのだけれど、夏が八月で終わるというこの感覚は、夏休みが八月いっぱいで終わっていたことと無関係ではないような気がする。根拠はまったくないし、根拠など必要としていない。

 秋は終わっていく季節だ、と以前Twitterで呟いたのだけれどもう一度書く。秋は英語で"fall"または"autumn"と言う。その片方である"fall"は、"fall of the leaf"、つまり「落葉」に由来している。実に詩的な由来であるが、"fall"は秋という季節をよく表しているように思う。由来の落葉はもちろん、日毎早まる落陽や、下がる気温など。秋は、落ちゆく、沈みゆく、終わりゆく季節なのだ。「夏の終わり」は、そうした「終わりゆく季節」の始まりでもあって、つまり「終わりの始まり」でもあるのだ。だから、夏の終わりには余計に感傷的になってしまうのかもしれない。(何がどう終わるのだ、と問われると明確に答えるのは難しいけれど、春を始まりとした一年の終わり、というような感覚でいる)

 大学生の頃から、秋になると気持ちの平均線まで諸々と一緒に下がる。理由はよくわからない。日が短くなるからなのかもしれないし、気温が下がるからなのかもしれないし、夏休みが終わってしまうからなのかもしれないし、その全てかもしれないし、そのどれでもないのかもしれない。原因は不明だが、とにかく秋にはそうして気分が落ち込むので、秋という季節が少しだけ苦手だ(毎年秋になるとどこかしらでこのことについて書いているので余程なのだろう)。とはいえ、大学の頃と比べるといくらか落ち込みの度合いは軽減されており、その理由はなんとなくわかっている。目を逸らす方法を、ないしは、距離を取ることを覚えたのだ。目の前にあること以外のもろもろから。

 自分が望んでそうしたのか、自然とそうなったのかを判断することは難しい。ただ、恐らくは両方だろうと思う。自分にはそれが必要だったのだ。その代わりに失ったことについて考えることはしない。それは目の前ではなく、後ろにあるものだ。

 九月に入ってからしばらく冴えない天気が続いていたけれど、今日はとても気持ちの良い天気だった。日中は陽の当たる場所にいると少し暑いくらいだったけれど、吹く風は夏のそれとは決定的に違っていた。秋は風にのって、雨とともに、夕暮れに潜んでやってくる。

 人は慣れていく生き物だ。良きにつけ悪しきにつけ色々なことものに慣れてしまう。けれども、悪しきについて、完全に慣れてしまうことはきっとないような気がする。その、対処が上手くなるだけで。

 風に乗って甘い匂い。どこかで金木犀が咲いている。秋だ。

ブレーキは効かない。

 帰り道の車内、時刻はまもなく19時になろうかというところだった。ずいぶんと日が長くなったけれど、さすがに19時ともなれば辺りはもう暗い。ランダム再生に設定しているオーディオからはBjorkのVespertineの何曲目かが流れている。少し向こうの信号が黄色に変わったのを見て、ブレーキペダルに足をかけてじわりと踏んでいく。車が少しづつ減速して停止線の手前でゆっくりと停止する。その手応え(というより足応えか)とその状況が、ふいに記憶を呼び起こした。ここ数年の間にときおり見る夢、眠る間に見るあの夢だ。

 夢の中でも僕は車を運転している。赤信号を確認してブレーキを踏むのだけれど、ブレーキの効きが極端に悪い。必死にブレーキを踏み込んで、なんとか前の車にぶつかることなく停車する。運転をすぐにやめればいいのに、僕は停車のたびにブレーキをぎりぎりと踏み込み、すんでのところで止まって安堵の息を吐く。細部はいろいろと異なるけれど、基本的にはそんな夢だ。

 なんとも言えない気持ちになった。お世辞にもいい夢とは言えないし、運転中に思い出したい内容ではない。けれども、一番のひっかかりはそこではなくて、その夢を見ていたことを今まで思い出せなかったことだった。つまり、そうした夢を見ていたことにその時気づいたのだ。どうやらその夢を見て目覚めると、どんな夢を見たのか、ないし夢を見たことそれ自体を忘れてしまっていたらしいのだ。それも、一回ではなく、何度もだ。なんだかなあ、という気持ちになる。効きの極端に悪いブレーキペダルを目いっぱいに踏み込んでゆく、あの嫌な感触を思い出す。ブレーキペダルを踏んだ足に少しだけ力が入った。

 家に帰って、ふと思いついて検索してみる。「ブレーキがきかない」と打ち込むと、予測候補に「夢」と出てきて笑ってしまう。よくある夢らしい。夢診断が書かれたいくつかのサイトをざっと見てみるといくつか説があり、おおざっぱにまとめると、ひとつは『自分自身(ないしは人生の進む方向へ)のコントロールが効かない、制御ができない心理』、もう一つは『精神的・肉体的に極度のストレスをためている』というものだった。

 僕は、夢診断の類は占いのようなものだと思ってあまり信用していない。感情のコントロールは難しい技術だし、人生のコントロールに至っては困難を極める。そういう意味では、感情も人生もなかなかままならないもので、コントロールが効いていると言い切るのは難しい。後者のストレスとなれば尚更だ。実際僕も、三月に入ってからすこし疲れていた。もう少し正確に表現するのなら、色々なことものに対していまひとつ気力が湧かないでいた。どうにもしゃきっと、ないしはきりっと、もしくはぴりっとしない。それを疲れていたと表現するのが適切なのかは分からないけれど、そう大きくずれてもいないだろう。その疲れの理由はいくつかあるけれど、どれもがどうにかできる種類のものではなく、そしてだからこそ疲れていた。とはいえ、生きていればうまくいかないことも嫌なこともあるし、ある程度のストレスはあって当然、疲れることだってもちろんあるだろう。そしてそれは、現状、決してどうにかなってしまうような強度のものではないように思えた。けれど、夢診断によればそれは「極度のストレス」にあたるようだ。つまり、現代社会を生きる多くの人は、おそらく夢の中でブレーキが効かない。

 夢に色々とそれらしい理由をつけるのは簡単だけれど、僕自身が車を運転する夢を見る理由はもっと単純だと思う。転職してから仕事中はほぼ毎日、今までとは比較にならない時間車を運転しているからだ。ここ数年の間に見るようになったというのも転職した時期と一致する。ただ、ブレーキが毎度毎度効かないというのは気になるポイントではあった。多くの人が同じようにブレーキが効かないというのもまた不思議だ。夢診断の言うストレスや自身の制御不能ではない、なにか別の理由があるんじゃないだろうか。そんなことを思いながら検索結果を眺めていると、2chまとめサイトの書き込みにこんな旨の言葉があった。

 『ブレーキが効かないのは、寝ていて足がつかないから』

 思わず膝を打った、という言葉はこんなときに使うのだろう。実に納得感のある言葉だった。

 この説が本当に正しいのかどうかは分からない。けれども、僕はこの説を全面的に採用しようと思った。このことに関して言えば、別に正誤なんてものはどうでもいいのだ。多くの夢診断サイトに書いていたように、僕は今自身の感情や人生の進む方向をコントロールできていないのかもしれないし、精神的・肉体的に大きなストレスをためているのかもしれない。そちらが正しいのかもしれない。足がつくつかないにかかわらず、通常であれば常にブレーキが効くのかもしれない。けれども、その正誤を僕はすぐに判断ができないし、する必要も特に感じなかった。こういうことは、確からしいと感じた方、都合のいい方を採用してしまえばいい。それで、なんの不便も支障もないのだから、それでいいのだ。

 僕は三月に入ってから、疲れている。うまくいかないことも、嫌なことも、腹の立つことも、ストレスもある。たぶん、次に夢で見る車のブレーキも効かないだろう。けれどそれは、僕の心理状態云々などはまったく関係なく、夢を見る僕の足が必死にブレーキをかけようと宙を踏みつけているせいなのだ。

 実に馬鹿らしくて、間抜けで、愉快だ。