四月十日

 空は淡い水色で、薄ぼんやりとした雲が浮かんでいる。中学校の校舎をバックに、昼下がりの少しだけ赤くなった陽の中を桜の花びらが風と踊っていた。

 ふと見やった窓の外に広がる景色が綺麗で、読んでいた小説を机に置いた。ほとんどそれと同時だったと思う。ごう、と風が吹いた。風は大量の桜の花びらを舞い上げて、窓の左から右へと疾った。窓の外一面に桜が舞い踊って、しばらくするとたくさんの花びらが陽を受けてきらきらと光りながらベランダに落ちた。

 あとから後から涙が出てきて、わけも分からずただ泣いた。

 言いたくない。こんなことを、言いたくはない。けれど、けれども。この瞬間は、今この瞬間くらいは、この世界は素晴らしいと、素晴らしい世界だと、そう言っても、言ってしまってもいいんじゃないかと思ってしまった。

 記憶はあまりにも不完全だ。目にした瞬間を、完全な形で保存しておくことができない。人は忘れてしまう。毎日は続くのだ。今この瞬間も、続いている。そうして続く毎日の中で、すぐに忘れる。きっとそれでいいのだろう。忘却もまた、人間にとって大切な機能の一つだ。けれど、残しておけたら、と思ってしまう瞬間が、ある。

 だから、こうして文章を書いている。どんな天気で、空の色はどんなだったか。桜はどんなふうに舞って、それがどれくらい綺麗だったか。なにを感じ、なにを思ったか。拙く、曖昧で、完全とはほど遠い記録だ。でも、これが今の自分がとれる保存方法の一つなのだ。

 けれどこの文章は、たった一つの単語で表現できることを長々と書いているだけに過ぎない。なにせ、こういう文章を書いてしまうことを含めて、これには遠い昔から名前がついているのだ。

 人はそれを、春と呼ぶ。