何よりも悲しいのは

 少し前、こんな記事が一部で話題になっていた。

 http://d.hatena.ne.jp/yaneurao/20110624

 福島原発10km圏内に住んでいた家族が避難の際、犬を置いてきた。その時の父と娘の会話についての記事だ。父親は娘に説明をしたけれど、娘は納得しなかった、という話を受けて、それについてブログ主が言及している、という内容。それ読んで思ったことが今日のエントリ。

 このエントリは、命の価値について、その価値観の違い、という内容を含んでいる。命の価値とか重さとか意味とか、そういう類のお話というのは結構人気のある話題で、よくネット上でも目にするのだけど、そういうのを見ていて時折「うーん」と思うことがある。それは、「価値」があらかじめ「ある」という考え方だ。個人的には、全てのものの「価値」は後付けでしかなく、あらかじめ存在する価値などというものはないんじゃないかと思っている。価値は価値をつける人が存在しなければ存在しない。

 例えばこれがお金の話であればもう少し分かりやすい。価値(価格)はつけるものだ、というのが理解しやすい。けれど、こと「命」とかになると途端にむずかしくなる。命には意味があるとか、命には価値がある、命の重さは一緒、みたいな言葉が語られることが多いせいかもしれない。だから、「命」には価値が、意味が、あらかじめ「ある」と思ってしまうのかも知れない。

 けれど、「命」の価値や意味もまた、同じように後付けだ。価値や意味は「ある」のではなく、それに価値や意味を「見出している」に過ぎない。そう言う意味では、そこに価値や意味は「ある」と言えるけど、それはその見出した人それぞれが決めたものだ。

 まあ繰り返しになるけど、価値というのは「つける」ものだよ、ということだ。だから、価値というのは人それぞれ異なるし、「全ての人にとって絶対的に同じ価値を持つ」などというものは、恐らく存在しない。

 ここからが本題。

 リンク先の親父さんと娘さんの会話を引用してみよう。会話はこんな娘さんの問いかけから始まる。

「ハナ(補足:犬の名前)は私たちの家族じゃなかったの?家族を見殺しにするの?」
「ハナは確かに我々の家族だ。だけど犬なんだ。犬と人間とでは命の重さは同じではないんだ。たとえそれが家族であったとしても、だ。」
「命に重いとか軽いとかあるの?」
「ある。命に重いとか軽いとかは、あるんだ。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって生きている。命を持っている。でも、その命は人間の命の重さとは等しくない。もし、ミミズの命と人間の命が交換可能で、そして人間の命がミミズほどに軽ければ、誰か人が死んでも誰も悲しまないだろう。ミミズと人間とは命の重さが違うんだ。だからこそ人の命は尊いんだ。わかるかい?」

 親父さんの言う、「命に重いとか軽いとかは、あるんだ」というのは別に間違ってはいない。少なくとも、現状多くの人にとってはそれは当てはまる、という意味でそれは確かに「ある」し、少なくとも親父さんはそう思っているのだろう(ただ、それが普遍的事実のように言うのは違うし、『だからこそ人の命は尊いんだ』という論理展開にはちょっと納得しかねるけど、まあそれは別の問題なのでスルー)

 けれど、命に重い軽いがあるとかないとかそういうことは、ここでの本質的な問題ではないように思える。問題なのは『父親と娘にとっての犬の価値が違う』という部分ではなかろうか。つまり、よくある言葉でいうのなら「価値観の違い」だ。

 この父娘の価値観の違いについて、Twitter@hajime2eさんが的確な表現をしていたので引用すると、『子供にとっての犬の命が、地球の裏側にいる知らない人間の命よりも重いか同等』*1で『お父さんにとっての犬の命が、自分たちの生活を維持しつつ避難所に犬を連れて行けない問題を解決するコストよりも軽かった』*2ということだ。冒頭に書いた前提のとおり、二人の「決めた」価値が――言いかえるのなら、命の重さが――違ったのだ。

 娘さんの中にも(自覚はしていなかったにせよ)命の重い軽いはきっとあったはずだし、親父さんにも当然それはあるだろう。だから「命の重さの違い」は前提条件だ。その上で、二人の価値観がずれていることこそが、ここにおける一番の問題だろう。二人の価値観が一致しているのなら、そもそも娘は犬を置き去りにすることをごねないだろうし(感情的に思う部分があるにしても)、逆に父親は犬を置き去りにはしなかった筈だ。

 けれど、この二人の会話はその本質とはずれてしまっている。正確には、その本質問題にたどり着く前に終わってしまった。

 具体的に見てみる。決定権を持った父親は、自分の価値観に基づき「犬を置いていく」という判断を下した。けれど前述のとおり、娘は父親とは違う価値観を持っている。だから決定を下した父に問うている。『ハナは私たちの家族じゃなかったの?家族を見殺しにするの?』それはつまり「なぜお父さんはハナを置いて行くことを決めたのか?」という問いだ。(そしてその言葉には「その決定を覆してくれ」という要求を含んでいるのだろうけど)

 けれど、父親はその問いに対してはっきりと答えなかった(ないしは、答えられなかった)。娘さんが「命に重いとか軽いがある」という前提を共有していれば、親父さんの言葉に含まれた意味――つまり、「父にとってのハナの価値」はここに置いて行く程度の価値だった、ということ――が読み取れたのだろうけれど、娘さんとはまだ前提が共有されていなかった。だから親父さんは前提について説明をしたけれど、娘さんはそれが「分からない」と言って泣いた。

 それが、文章から読み取れるこの問題の構造ではないだろうか。

 サンデル教授によって有名になった「トロッコ問題」という有名な思考実験がある。

まず前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。
(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。
(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。
Wikipedia「トロッコ問題」

 ただでさえ悩ましいこの問いは、登場人物を置き換えることでさらに悩ましくなる。例えばそのB氏の場所にいるのが自分の恋人や配偶者だったら。線路の先にいるのが死刑囚だったら。凶悪犯罪者だったら。5匹の猫だったら。五人の人間と、自分の飼い猫だったらどうだろう。そして、そのA氏が自分だったら。その時一体どんな決断をして、その選択について問われたとき、一体なんて答える。

 この問題は、問われた人の中にある「命の価値の違い」を、抉り出し、突き付ける。命の価値が平等だと、それを本心から言える人が一体何人いるだろう。少なくとも、自分にはその言葉はとても言えそうにない。

 この問いに、論理的に「正しい」と言える回答はあっても一つの「正解」なんてものはないだろう。問われた人それぞれに、それぞれの答えがある。

 もし、自分がこの親父さんの立場だったらどうだろうか。犬をどうしただろう。娘の問いにどう答えただろう。

 こんな問いに答えねばならない場面に出くわさずに済めばよかった。けれど、この父娘にはそういう場面がやってきてしまった。

 何よりも悲しいのは、きっとそこだ。

*1:引用元:http://twitter.com/#!/hajime2e/status/84102592942194688 hajime2eさんのhatenaダイアリは[http://d.hatena.ne.jp/Digital/:title=こちら]

*2:同上