机上の文通

 こないだふと思い出した高校時代の(ところどころ曖昧な)記憶について。別に盛り上がりも落ちもない。おセンチな気持ちになってしまったから書く。

 あれは確か、高校1年の1学期の後半、期末試験の終わった7月の終わりのことだった。

 自分の通っていた都内の公立高校には、全日制と定時制があった。定時制ってのは、簡単に言うと夜間部のことだ。詳しくはWikipediaを参考にしてくれたらいいと思う。(Wikipedia「高等学校-定時制の課程」

 定時制の一時間目の開始時間は確か17時半。逆に全日制にとっての17時半は、完全下校時刻だった。17時半を過ぎても部活やってると怒られたのを覚えている。ようするに、全日制と定時制の生徒間での交流は全くといっていい程なかった。

 定時制の生徒数は全日制と比べるとかなり少なかった。全日制のクラス編成は、各学年8クラス(1クラス約40人)だったと記憶しているが、定時制が利用するのは1年の教室のうちいくつかだけだった。その、「いくつか」の教室のうちの一つには、自分の使っていた教室も含まれていた。机は定時制と共有になるので、机の中にはものを残していかないように、と担任のピグレットによく似た英語教師がよく言っていた。

 教室は校舎の4階にあった。席は窓際の後ろから2番目という好ポジション。クーラーの存在しなかったあの学校にとって、風が入る窓際の席というのはかなりポイントが高い。お陰様で、授業時間には適当に板書を写しつつ本を読むという優雅な時間を過ごしていた。東京の外れに位置する学校の周囲には高い建物がないので、窓からは夏の空がよく見えた。

 朝、いつものように登校してくると、自分の机に落書きしてあるのが目に入った。定時制と共有の教室だったので、恐らく定時制の生徒が書いたのだろう。以前にもそういうことがあったので、特に驚きはしなかった。バックを机の脇のフックに引っかけて椅子に座る。改めて落書きを眺めてみると、そこにはなにやら文章が書かれていた。筆跡からすると恐らく女の子。丸っこい、いかにも女子!といった文字が並んでいた。

『こんにちは。わたしは定時でこの机をつかっています。今は数学の時間ですがさっぱりわかりません。そっちは高校生活どうですか?』

 それは、定時制の生徒からのメッセージだった。この机に座っている定時制の女の子が、数学の時間に暇をもてあましてこのメッセージを書いたのだろう。男でないとは言い切れないが、当時の自分はその可能性をまったく考慮しなかったし、10年がたった今も考慮するつもりは毛頭ない。

 それは何とも胸高鳴るシチュエーションだった。何せ高校1年生である。そんなエロゲの導入部のようなイベントが発生してドキドキしないわけがない。高校1年生当時の自分は、そのメッセージを読んで、その女の子と付き合うところまで想像していた。相当先走っていた。全力疾走である。幼かった。今ならもっと先まで想像する。

 脳内は完全にバラ色だった自分だが、外見上は非常に冷静だった。周囲に気付かれたくない、という防衛本能が働いていたのだろう。こんなものがばれようものなら、ぎゃーぎゃー騒がれるに決まっている。そんなのは願い下げだ。この小さな可能性(可能性と書いてフラグと読む)を大切に守らなければならない。

 その日の授業時間もとい読書時間は、返事を考える時間となった。どんな返事を返したのかは全く思い出せない。きっと、とても無難な返信をしたのだろうと思う。今思えば、大して内容のない2行程度の文章に返事を書くのに何を悩む必要があるのか、という感じだが、当時の自分の気持ちになればそれも仕方ないことだろうなあ、と思う。

 次の日、返事が来ているかどうかにドキドキしながら教室に入った。机の上に、丸文字の列を見つけたとき、きっと自分の顔はにやけていたんだろうなあ、と思う。

 それからしばらくの間、その名前も顔も知らない女の子とのやりとりが続いた。一日に一回、机の上で交わされる、短い文章のやりとり。どんな話をしてたのかぜんぜん思い出せないのだけど、多分、そんなに大した話はしなかったと思う。きっと他愛もない話をしていたのだろう。携帯の番号や、アドレスの交換もしなかったし、特にその相手に対して恋愛感情めいたものを抱くこともなかった。けれど、それは小さな小さな楽しみだった

 そうして、学校が夏休みに入るまで続いたそのやりとりは、夏休み明け直後の席替えによってあっさりと終わりを告げた。

 自分が座っていた窓際の後ろから2番目には、クラスの女子が座ることになったような気がする。終わり際の記憶はとても曖昧だ。「どうしよう」と思ったことは覚えているのだけど、実際に「どうしたのか」をまったく思い出せない。何かをしたのか、それともなにもしなかったのか。とにかく覚えているのは、そこで机上の文通は終わってしまった、というだけだ。ようするに、フラグは折れてしまったのだ。

 ずっと思い出しすらしなかった。きっと、自分にとってそんな大きな出来事ではなかったのだろう。特にその子に対して恋愛感情を抱いていなかったし、決定的な何かを感じるような言葉の応酬があったわけではなかったから。もし、そのどちらかでも満たしていたら、きっともっと細部まで覚えていたのだろうけれど。ただ、こうして今になって思い出してみると、これは中々素敵な記憶だなあと思う。往々にして過去の記憶というのは美化される傾向にあるけれど、それを加味した上でも。

 部活帰りに、自転車に乗りながら教室の窓を見上げたことがあった。当然、授業を受けているであろうその子が見えないかな、と思ってのことだろう。見上げた窓に見えたのは、夕暮れに赤く染まる薄いクリーム色のカーテンだった。当然中は見えなかったけれど、一番後ろから二番目の席の辺りを見る。カーテンが風に揺れて、ちらちら、と制服姿の女の子が見えた。きっとあの子だ、そう思いながら帰路につく。

 机の上で行われた、他愛もない言葉のやりとり。夏の夕暮れと、カーテンの隙間に見えた制服の女の子。

 センチメンタルになるには、十分過ぎる。