世界は外にも広がっている

※これは、俺の勝手な考えをつらつら述べただけの、言うなれば自分語りみたいなものだ。そういうのがだめだーという人は読まない方がいいかもしれない。


 「世界」とは果たしてなんだろうか。

 「世界」という言葉には色々な意味がある。だから、上の問いに対する答えは一つではないだろう。そして多分、どれが正しいとか間違っているとかそういうものでもない。

 上の問いに対する回答の一つとして「自分が認識できる範囲が世界である」というものがあると思う。その文脈における「世界」とは、人の数だけ存在する、その人を中心に回る世界を指す。俺には俺の世界があるし、これを読む人には読む人それぞれの世界がある。


 「世界」を「認識できる範囲」と定義した場合、日常において長時間過ごす場所は、そのまま「世界の大部分」になることが多い。学生であれば学校、社会人であれば職場などがそれに当たるだろう。特に、色々な面で自由度の低い、小・中・高校生だと、否が応にも「通っている学校」が「世界の大部分」になりがちであるように思う。故に、「学校で起こる問題」はそのまま「世界の問題」になってしまう。

 さらに、そこで何らかの問題が発生したとする。仮に、その問題が自分の処理能力の限界に近い、もしくはそれを超えている場合。または、複数の問題が同時に発生した場合、人は視野狭窄に陥りやすい。つまり、それ(それら)に心を囚われてしまって視界が狭くなってしまうのだ(例えば恋とかは「恋は盲目」なんていうしいい例かもしれない)。「視界が狭くなる」というのは「認識できる範囲」の縮小だ。つまり、「世界が狭くなる」と言い換えることができるように思う。

 「世界が狭い」ことは別に必ずしも悪いことではない。狭い世界で生きることを選択するのであれば、それは一つの選択だし、俺はその狭い世界の平穏を守って生きていくということはとても幸せなことだと思う。

 けれど、学校という閉じられた範囲が「世界の大部分」になっていて、さらにそこで起こった問題によって「視野が狭まっている」という状態を「良い」とは言い難い。なぜなら、それが「世界の問題」なのだ。狭い世界に逃げ場所はない。荒れ狂う世界で、溺れてしまう。

 だから、学校にまつわる問題はしんどいのだ。いじめや、なじめないことや、そういった諸々は、世界の問題だから。

 「それなら世界を広げればいいじゃないか」という話になるのだが、自力で世界を広げるのは、とても難しい。なぜなら、それがその人にとっての「世界」だからだ。目に届かないものを見ることはできないし、手の届かないものに触れることはできない。そうである以上、感じることの出来ないそれらは「ない」ものと同じだ。それがあることを「知らない」のであれば、それは「ない」のだ。

 どうすれば問題が解決するのかは分からない。それをすっかり解決するような方法を俺は知らない。けれど、上に書いたことから導き出せることが、一つだけある。

 それは、「知ること」だ。

 学校の外にも、学校以外にも世界があることを。

 人間は簡単に視野狭窄に陥ってしまうことを。

 「世界」の外にも「世界」は広がっていることを、知ること。

 学校の外に世界があることをしれば、転校・編入・学校に行かない、という選択がとれるかもしれない。

 自分の視野が狭まっているかもしれない可能性に気づけば、今まで見えていなかった解決策に目が向くかもしれない。問題と思っていたそれが、実は大した問題じゃないと思えるようになるかもしれない。問題は解決せずとも、それを補う素敵な「何か」が周囲にあったことを知るかもしれない。

 すべてが可能性の話でしかない以上、問題は解決しないことも当然あるだろう。むしろその可能性の方が高いかもしれない。けれど選択肢を知らなければ、それを選ぶことは絶対にできない。なぜなら、それは世界の外の話だからだ。

 可能性はあるのだ。見えていない可能性は、きっとある。


 今まさに苦しいと、悲しいと思う人は「何を勝手なことを」と思うかな。少なくとも高校時代の俺なら、きっと思っただろう。荒れ狂う「世界」の波に溺れないように必死だったあの頃の俺に、この言葉はきっと届かない。もしかしたらこんなことを言うやつを憎みさえするかもしれない。

 でも俺は、意味を持つ可能性を「知った」から、こうして文章を書くよ。これは恐らく届かないのだろうと思っても、それでも言葉が残ることを「知った」から、言う。

 もし過去の自分に会えるなら、俺は伝えたい。

 今いるそこは「世界のすべて」じゃない。

 「世界」の外にも、「世界」は広がってるよ。

 紛れもない、事実として。