だからエッセイとかはあんま読まない

 好きな映画とか、好きな音楽とか、好きな本とか絵とか漫画とか、まあ色々好きな物ってのが人それぞれあると思う。特にない、って人もいるだろうけど。

 例えば自分だと、村上春樹ノルウェイの森」が好きだ。人生で書籍一冊なんか選べって言われたら今のところ迷わずこれ選ぶ、というくらい好きというか特別な作品だ。村上春樹との出会いは「ノルウェイの森」だった。以降村上春樹の作品は長編は殆ど読んだし、短編も大体読んだ……筈。なのだけど、エッセイだけは一冊も読んだことがない。

 そもそも、エッセイというのはデジタル大辞泉によると以下の通り。

エッセー【essay】
《「エッセイ」とも》
1 自由な形式で意見・感想などを述べた散文。随筆。随想。
2 特定の主題について述べる試論。小論文。論説。

 上記の説明を見ると、こういうブログなんかもエッセイと言えんことはないのだろうね。そう考えるとこの日本には沢山のエッセイがあるね。*1

 エッセイにおける「主人公」は書き手その人だと思う。その書き手自身の五感で感じた世界についてのお話だ。例えば「ノルウェイの森」の主人公は「ワタナベトオル」であって「村上春樹」ではない。けれど、村上春樹のエッセイにおいては「村上春樹」が主人公であり語り手(な筈)だ。そこには「村上春樹の思考」が書かれている。

 だからエッセイを余り読みたくないのだ。

 どんなにその作品が好きだからと言って、その作者もまた好きになれるかどうか、というとそれは必ずしもイコールではない。好きなのはその人が創りだした「作品」なのであって、それを創った「その人」ではないからだ。当然作品にはその人自身の何かは反映されるだろう。けれど、その作品は「その人」を描くわけではない。でもエッセイは「その人」をそこに描き出してしまう。当然、人と人なので相性の問題などで好きになれないこともあるだろう。

 個人的に望ましい姿勢(自分がそうありたい姿)は、「作品」と「作者」に対する評価が全く別々であることだ。でも、どうしても「作者」に対するイメージは「作品」に対しても何らかの影響を与えてしまう場合が多い。それが善いイメージならいいけど、悪いイメージだと性質が悪い。それで作品そのものを楽しめないのなら凄く勿体ないし、哀しいことだ。

 だから、好きな創作者のエッセイ(ブログやツイッターを含めて)はなるべく、あんまり読まないように……というか避けてしまう。*2

 きっと面白いエッセイやブログ・ツイッターもあんだろうけどなー。もったいないよなー。とか、村上春樹のインタービュー集を書店で眺めつつ思うのでした。

 どうでもいいけど、音楽家や俳優とかのは作家よりももっと見たくない。

*1:厳密にはブログとかは含まない言葉なのかも知れんが。

*2:あんまり、と書いているように全く読まない訳じゃない。エッセイやブログから入った場合や、好きになってしまえば読む。前者は、伊藤計劃さんや、川上未映子さん。二人はブログから入ったのだけれど、ブログに書かれた文章が凄く好きなので、今後もエッセイやブログを読むことに抵抗はない。もう好きだから。後者は浅井ラボさん。ブログ、ミクシィ、ツイッターも面白いし好きなので見てるけど、作品から先に入った。