夕焼けに潜む、遠くなる記憶

 なんか適当に思ったこと書きたいから書く。本当ただの垂れ流しです。

 18時前くらいにどうしようもなく眠いのと、そん時読んでたblogの文章が超絶及ぼし系*1だったのもあって休憩に入った。休憩といっても制度として与えられるそれではなくて、自ら設定し勝手に取得する休憩なので時と場合によってはそれはサボリという名称で呼ばれる。

 今自分が勤務するのは地上15階くらいのところなのだけど、喫煙室から結構綺麗に空が見える。今日は天気が良くて、空とか青いし、雲とか白くて夏だった。たぶん外は暑いのだろうけど、クーラーの効いた室内にしかいないからよく解らない。

 眼に映るのは間違いなく記憶の中にある「夏の空」なのだけど、そこには、うだるような暑さだったり肌を刺す日差しだったり日陰の風の涼しさだったり不愉快な多湿だったり蝉の鳴き声だったりがどうしようもなく不在で、何だか気持ちが悪いなあ、と思う。

 駅地下から直通の勤務地なもんで、ここ二年ほど季節に対する実感が得ずらくなった。当然朝と夜の帰り道に駅から家までの道のりがあるのだけど、家も駅まで2,3分とかいうふざけた立地だし、その道のりも人工物ばっかなのであまり効果が望めない。あと、朝は余裕がないし、帰りはいち早く自室に帰りたいという欲求が強すぎて周囲に気を配る余裕が基本無い。雨の日にはかなり便利だけど、個人的にそれはなんというか凄く寂しい。季節の変化に敏感でいたいというか多分比較的敏感な方だったと思っているのだけど最近それを視覚以外で感じるのが難しい。

 それでも、窓の外に見えるのは夏の空だった。沈みかけた太陽の日差しは多少赤みを帯びていて、それが雲を薄い金色に照らしてた。なのに空はまだまだ青くて高かった。ぼおっとそんな空見ながら煙草吸ってたら、あー死にてーって静かに思った。そういうときって大体ちょっとだけ泣きたい。

 ただ、そこで言う『死にたい』ってのは決して生物学的に死にたいとかそんなんじゃない。この言葉を上手く説明した文章があったので、ちょっと長くなるけど引用する。

ある種の気分を既存の言葉ではうまく表現できないために「しにたい」という言葉でとりあえず代用させているのだと思う。

中略

 既存の言葉でいえば、たぶん「やるせない」がいちばん近い。しかしそれでは足りない。「やるせない」という言葉のうちには、存在を揺るがすようなものがない。確かに、どうにも対処のしようがなく、なかば諦めかけていて、それでも諦めれないなにかについて、人はため息混じりに「やるせない」という言葉を使うのではあるだろう。けれど、人がやるせないのは、それでも明日も人は生きていかなければならないからだ。そこにはやや憂鬱ながらも確かに時間の流れは存在し、また人の生は前提としてどうにもならないくらいに存在している。

 しかし「しにたい」はそうではない。それは、前提として諦めている。欲しいものがあって、けれどそこには手が届かないことが「前提として」諒解されている。それでも欲しがる自分というものについて、若干の諧謔と自虐を含みつつ、ため息というよりは長々とした嘆息とともに、ある人々は「しにたい」と呟く。

引用元 : 僕らはカジュアルに「死にたい」 - G.A.W
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090629/1246266960

 これ読んだとき感動した。もう凄い的確に的確だった(日本語破綻)。俺が書きたいなーって思うこと全部ここに書いてあった。自分で文章にする必要なくね?って思うくらいここにあった。

 MK2さんは夏を例に出していたけれど、自分の場合は大体夕焼けがなぜかだめだ。夏から秋にかけては本当病的にだめ。もしかしたら、人生のある地点で失ってしまった、ないしは望んだけれど手に入れられなかった何かを、夕暮れの空に見るのかもしれない。

 この『死にたい』に表現される感覚が、歳を重ねたある時からふと芽生え、年々強くなっている気がするのは何故なんだろう。

 と、ここまで書いて放置してたんだけど、読み返してふと思った。もしかしたら、それは遠くなるからかもしれない。その、『人生のある地点』から。

 もう思い出される記憶にリアリティはない。あの時感じていた身悶えるような身を裂くような感情は蘇らない。血を噴き出し鋭く抉るような痛みをもたらすあの傷は、もうただの白い肉の盛り上がりでしかない。それは、時間がそうさせた。どうしようもなく流れつづける時間がそうしてくれた。そして今も、淡々と、同じ速度で、確実に、俺はあの頃から遠ざかり続けている。恐らく、それにほぼ比例して具体性は、リアリティは失われて行くんだろう。

 けれど、何かをきっかけにしてその傷跡が痛む。鈍い痛みでもって、その存在を訴える。もしかしたら、それは記憶なんじゃないだろうか。具体性を失い続ける中、傷跡に残った記憶の残滓みたいなもの。

 もしも、もしもこの仮説が正しいのだとしたら、これからも夕焼けを見て『死にてー』と思うし、夏の終わりから晩秋にかけて気分を落とすのだと思う。他にもたぶん、そういうきっかけがあるはずだ。それらきっかけとなる何かに、傷跡に残る記憶の残滓が反応する。そして『死にてー』なんて呟くんだろう。

 そしてきっと、自分はその度なんか文章を書くと思う。感情の慰撫の為に。鈍い痛みがもたらす快楽に酔いながら。こんなふうに。


 で、どうでもいいけど最近まじ膝の裏痒い。なんでだろう。

*1:精神に対して何らかの影響を及ぼしてくる割合が高いものを及ぼし系と呼んでいる。主には俺が。作ったのは友人。