温い惰性の匂いがしても

 
 ある視点に立てば、代替不可能な『関係』なんて殆ど無い。別の言い方にするのなら、その人じゃなければならない理由なんて、突き詰めたら無い。その人じゃなくてもよかった筈なのだ。
    
 それはただ人生のある地点で、たまたまその人とそうなった、というだけの話だ。そこに別の誰かを当てはめても、上手くいく人は他にもいるし、もしかしたらもっと幸せに楽しく過ごせる人だっているかもしれない。
 例えば、彼氏彼女(夫や妻)、友達等々。『関係』はいつだって代替可能だ。「誰でもいい」とは言わないが、「他の人でもよかった」は、いくらだってある。
 
 でも、そうして代替可能な関係に今いるのは、今いるその人に他ならなくて、だからこそ、今そこにいるその人や、その人と積み上げてきた時間は唯一無二で、そしてそれを、やっぱり大事に思う。
 代替可能だけど、「それでもそこにその人にいて欲しい」と尚思うその気持ちや、「この人じゃなきゃだめなんだ」と思ってしまう、その錯覚や勘違いを仮に愛とかそういうふうに呼ぶんなら、これからだって積極的に錯覚するし、どんどん勘違いして生きていきたい。
 

理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない
  
村上春樹スプートニクの恋人

 スプートニクの恋人を久しぶりに斜め読みしていたら、上の言葉が太字で書いてあるのが目に入って、以前友人とそれについて話をしたことを思い出した。
 友人と話をしたことはよく思い出していたのに、スプートニクの恋人にそれが書いてあったってことは、とんと忘れていた。
 
 前後の文脈を無視してその言葉だけを抜き出してその言葉について考える。
 
 誰かや何かを完全に理解することが不可能だとして、誰かや何かを理解すると言うそれは誤解でしかないのだとしたら、それら誤解が沢山沢山あつまったそれこそが、理解だ、とかそういう話だろうか。
 
と、勝手に『誤解』してみる。
 
 何が理解か、というのは置いておいて、我々の思う理解が誤解の総体でしかない、というその誤解について考える。
 
 確かにそう言う意味では、全ては誤解と言えるような気がする。何故ならその理解が「本当に」理解しているかどうかを確かめる術がないし、対人間、対ことものを「本当に」理解するのは現状まず不可能だろうと思うから。
 
 相手の言いたい事を上手く読み取れず誤解するし、言いたい事を上手く伝えられず誤解させる。
 でも、「あ、今伝わったな」って誤解もするし、「あ、多分今読み取れたな」っても誤解する。
 それならそういう誤解をし合いたいし、そういう誤解を積み重ねたい。
 

 
 こんだけ書いても言いたいのは結局、ひとつだ。