今年は「夏の終わり」と呼べるような期間がないままに夏が行ってしまった。自分の中での「夏」は八月一杯で終わりだ。それ以降の、夏が少しづつグラデーションを描きながら秋に変わっていく微妙な期間(秋彼岸が終わるまで辺りだろうか)を、夏でもなく秋でもなく、「夏の終わり」と呼んでいる。暦的な正確さは置いておいて、初秋とか晩夏というのも、実際の気温等々から考えればこの辺りを指してよさそうなものではあるが、個人的にこの時期は「夏の終わり」と呼ぶのがしっくりくる。そういえば「残暑」という単語があるが、「残夏」という表現がもし許されるなら(辞書には存在しなかった)それもよい気がするな。まあ、とにかく、今年はそうした「夏の終わり」と呼べそうな期間がないまま、雨やら台風やらが続いて、あっというまに夏が死んだ。そして、それをとても残念だと思っている。一年で一番好きなのは五月だけれど、一年で一番切なくて美しいのは、きっと夏の終わりだと思う。異論は認める。どうでもいいのだけれど、夏が八月で終わるというこの感覚は、夏休みが八月いっぱいで終わっていたことと無関係ではないような気がする。根拠はまったくないし、根拠など必要としていない。

 秋は終わっていく季節だ、と以前Twitterで呟いたのだけれどもう一度書く。秋は英語で"fall"または"autumn"と言う。その片方である"fall"は、"fall of the leaf"、つまり「落葉」に由来している。実に詩的な由来であるが、"fall"は秋という季節をよく表しているように思う。由来の落葉はもちろん、日毎早まる落陽や、下がる気温など。秋は、落ちゆく、沈みゆく、終わりゆく季節なのだ。「夏の終わり」は、そうした「終わりゆく季節」の始まりでもあって、つまり「終わりの始まり」でもあるのだ。だから、夏の終わりには余計に感傷的になってしまうのかもしれない。(何がどう終わるのだ、と問われると明確に答えるのは難しいけれど、春を始まりとした一年の終わり、というような感覚でいる)

 大学生の頃から、秋になると気持ちの平均線まで諸々と一緒に下がる。理由はよくわからない。日が短くなるからなのかもしれないし、気温が下がるからなのかもしれないし、夏休みが終わってしまうからなのかもしれないし、その全てかもしれないし、そのどれでもないのかもしれない。原因は不明だが、とにかく秋にはそうして気分が落ち込むので、秋という季節が少しだけ苦手だ(毎年秋になるとどこかしらでこのことについて書いているので余程なのだろう)。とはいえ、大学の頃と比べるといくらか落ち込みの度合いは軽減されており、その理由はなんとなくわかっている。目を逸らす方法を、ないしは、距離を取ることを覚えたのだ。目の前にあること以外のもろもろから。

 自分が望んでそうしたのか、自然とそうなったのかを判断することは難しい。ただ、恐らくは両方だろうと思う。自分にはそれが必要だったのだ。その代わりに失ったことについて考えることはしない。それは目の前ではなく、後ろにあるものだ。

 九月に入ってからしばらく冴えない天気が続いていたけれど、今日はとても気持ちの良い天気だった。日中は陽の当たる場所にいると少し暑いくらいだったけれど、吹く風は夏のそれとは決定的に違っていた。秋は風にのって、雨とともに、夕暮れに潜んでやってくる。

 人は慣れていく生き物だ。良きにつけ悪しきにつけ色々なことものに慣れてしまう。けれども、悪しきについて、完全に慣れてしまうことはきっとないような気がする。その、対処が上手くなるだけで。

 風に乗って甘い匂い。どこかで金木犀が咲いている。秋だ。