20131006_雑記

 ふと夏が行ってしまったことを思いだしてなんとも言えない気持ちになってしまった。私は十月生まれなのだけれど、毎年誕生日が近づいて涼しくなるたび、寂しいと言えばいいのか、虚しいと言えばいいのか、やるせないと言えばいいのか、そのすべてであるような、そんな気持ちになる。春はいい、日を追う毎に暖かくなり、日が長くなっていくのだから。けれども秋はその逆に、日を追う毎に寒くなる。六月を境に短くなっていたはずの日の短さを意識し始めるのはどうしてか決まって秋だ。気付くと十七時を過ぎれば空は暗くなっていて、朝晩には冷え始める。自分にとって秋は終わっていく季節なのだ。これから秋が過ぎて冬が来る。秋にも、冬にも楽しいことはあるのだけれど、それは、少しだけ心を憂鬱にさせる。

 九月に入ってから休日に予定があることが多く、そのうちの半分以上が仕事と言えば仕事のようなものだったのだけれど、今日はやっと一日なんの予定もない休日だった。昼近くまでぐっすり寝て、ご飯を食べてまた眠った。余りに寝過ぎたせいか少し今からだが重いけれど、こういう休日ができれば二週間に一日は欲しい。自分にとっての休日とは、特別これといった予定のない一日を指すらしいことがこの一ヶ月でよく分かった。十月の休日にも既に半分近くの予定が入っていて、それもまた、少しだけ心を憂鬱にさせる。

 去年はそうでもなかったのだけれど、毎年このくらいの時期になると気持ちの平均線がぐっと下がる。今年はそれが来ているのだろうかね、となにやら他人事のように思っている。他人事と書いて思いだしたのだけれど、この間仕事で関係のある初老の男性に「君は年齢の割にものごとを客観視できているように思える」とお褒めに預かった。(それが褒められることなのかは別として、また、自分のその能力が他人と比べて優れたものかどうかは別として)そういう自覚はあったのだけれど、いざそう言われて考えてみると、客観視しているというよりも、人に比べて色々なことものを他人事だとみなしているがゆえに、客観視しているように見えるのではないかという気がした。そもそも「客観的に見てみよう」と意識して客観視したことはほとんどないような気がする。良くも悪くも、ほとんどのことものは自分にとって他人事で、そういう意味で多くのことものは「どうでもよい」ことの方が多いように感じていて、そういう「どうでもよい」が結果として客観視を生んでいるのかもしれない。つまり、客観視する能力があるのではなくて、性格に起因する偶然の結果なのかもなあ、というようなことを初老のおじさま方の会話をふむふむと聞きながら考えていた。これは別に心を憂鬱にさせない。

 自分の中の「文章を書く部」みたいな場所がずいぶん鈍っているなあ、と文章を書きながら感じている。そういう部も、体と同じように、動かしていないの鈍るのだろう。とついったで書いたのだけれど、本当にその通りだな。実に鈍っている。ただ、鈍っているのは鈍っているのでその通りなのだが、やはり色々なことものは、考える前に飛べ、ではないけれど、まずやり始めろということだな。最近navarまとめかなんかで「作業興奮」とかいうのがブクマされまくっていたけれど(見つけた。http://matome.naver.jp/odai/2138059460481420301)、やり始めないことには本当にそのとおり始まらないというこの糞みたいな人体構造上の事実は何度でも思い出し、自分自身に言い聞かせるべきだろう。

 ほかにも色々思ったり書こうと思うことあるけどいまいちまとまりきらんし12時回ったので終わり。