忘れる

 こないだ、ふとなにかについて書こうと思っていたのだけれど、なんやかんやとしているうちにそれをすっかり忘れてしまって、結局今も思い出せないでいる。こういうことは今までもあるのだけれど、これに限らず、思いついたその時に実行しなければ失われてしまうことは、思っているよりもたくさんある気がする。「そうして失われるようなものなのだから大したことではない」という見方もできるのだろうけれど、別に失われないで済むのなら、失われなくていいとは思う。し、そういうときに失われるようなものは、たいていの場合、取り戻すことができないものだ。きっと。

 ここ数ヶ月で劇的に環境が変化したので、色々と考えることや思うことは多くて、日々「書きたい」と思うようなことはたくさんあるのだ。けれども結局その瞬間思ったそれらは文字になることなく今日まで来てしまった。そうして、日々「書きたい」と思ったなにかを置き去りにしてきている。いいでも、わるいでもないけれど、どうせなら「書きたい」と思ったそれがなんだったのかくらいは思い出せてもいいような気がする。そう思って、「何か書こう」と思ったときにさっとメモするために、内ポケットに収まる程度のメモ帳を買おうと思ったのだった。けれど、こないだ新宿で文具屋の前を通ったとき「あれ、何かを買おうと思っていたのだけど」と結局メモ帳を買おうと思っていたこともすっかり忘れていた。この調子ではメモ帳を買ったことを忘れてメモを取ることも忘れてしまうのだろうな。さもありなん。(今度は忘れずに買うと思う。こうして一度書いたので)

 別に、書く必要も、書かなければいけない理由も、なに一つない。だけど、ただ、書きたいのだ。日々を詳細にとは言わないけれど、書こうと思うような感情や、できごとや、そうしたことを文章化できる自分でいたいのだ。たぶん。

 少しづつ日が長くなって、春が近づいてきていることを日々実感する毎日だけれども、未来のことは不透明だ。1年後は、5年後は、10年後は。こうあればいいという想像はできても、こうなっているだろうという想像は難しい。来年の話をすれば鬼が笑うそうだ。それでも未来を思ってしまうのだけど、まずは目の前の今日を、明日と繋げていくことなのだろう。その積み重ねがいずれ1年に、5年に、10年になっていくはずだ。そうしていつか振り返ったとき、その時思っていた感情や、考えていたことや、できごとが、文章として残っていたらいいと思う。書きたいと思ったことを忘れてしまうより確実に、忘れていくことがもう分かっているから。

 10個下の人間と会話をする機会が訳あって多いのだけど、その所為か10年前の自分ならどう思っただろう、と考えることがある。僅かに残る記憶を頼りに考えてはみるけれど、というより、考えてみてもやはり、10年前の自分の思考を正確になぞることは難しい。地続きにあるはずの過去の自分は、自分でありながらやはり別人なのだろう。そして、その10年前の自分はもういないのだ。どこにも。

 Wikipediaの遺書という項目にはこう書かれている。『遺書(いしょ)は自殺する人、又は死ぬことが確実な人が残す文章である』。そう考えてみると、こうして書く文章は、今の自分から未来の自分に遺す遺書と言えなくもないかもしれない。まあ、そんな風に思って文章を書いてはいないし、書くつもりもないのだけれど、思いついたので言いたくなったのでした。

 さて、また忘れる前にamazonでメモ帳買おう。