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明けぬ夜、そして

 夏至が、消えた。

 それは決して、夏至と言う言葉がなくなったとか、夏至というもの――つまりは一番昼間が長い日――をいちいち人々が意識しなくなったとか、そういうことではない。夏至という現象そのものがなくなったのだ。今年の夏至の日に、夏至と冬至の間での引き継ぎが上手くいかなかったのだという。様々な要因が重なり合って、今までつつがなく、滞りなく行われ続けたその引き継ぎは失敗に終わった。だから、夏至は消えた。夏至が消えたことで、これからは少しづつ昼の時間が減っていくらしい。僕にはまったくよく理解できない話だったけれど、とにかく、昼が来なくなる、ということは確実であるようだった。

 僕の住む地域では、過去、夜は畏れの対象だった。理由は、人は暗闇に溶けるから、だった。暗闇の中で曖昧になった輪郭が、夜の闇に溶けていくのだという。服が溶け、皮膚が溶ける、順に肉が、筋が、臓腑が、骨が溶け、心が剥き出しになっていく。そうして、最後には剥き出しの心すらも、溶け出していく。それを畏れるが故に、僕たちの祖先は火を創り、明かりを灯したのだと言うのだ。しかし、いくら明かりを灯そうと、夜はそこにある。夜という存在までもを消すことはできない。だから人は夜には眠るのだと、昔、祖母が言っていた。輪郭が曖昧になる夜には、眠ることで心を閉ざし、そうして心が溶けることを防いでいるのだ、と。まだ起きていたいとごねる僕に「大人が子供を早くに眠らせるのは、意地悪なんかじゃないんだよ。あんたたちが夜に飲まれてしまわないように、そうしているんだよ」と祖母は言ったものだった。まだしっかりと形作られていない不安定な子供の心は、すぐに夜に溶け出してしまうから、とも。幼い頃に聞いたその話は、夜更かしをするようになった今でも、少しだけ僕を恐がらせる。

 僕の住む地域では、夏至の日にある儀式が行われていた。家々の軒先で火を焚き、これから長くなる夜に心が溶けぬよう、火に照らされた家族の輪郭を確認しあう、というもの――人々はそれを「照らし火」と呼んでいた――だった。けれど時代は変わった。住む家の形態、住む人々の家族形態が変わり、その儀式は少しづつ少しづつ廃れていった。今ではもう、その照らし火を行う家を見ることは少ない。人々が夜を畏れなくなっていったせいだ、と年配の人たちは言う。畏れはいつしか恐れに変わり、人々は夜になれば煌々と明かりを灯し、夜の空を白く照らした。僕の住む町にも近代化の波がやってきた。24時間営業の店の存在は当然になり、夜を起きて過ごすことは昔に比べておかしいことではなくなった。科学技術の発展や、経済発展に伴って、夜に対する恐れも薄くなって行った。「人間は夜の恐怖を克服したつもりになっているにすぎない」と年配の人なんかは夏至の日が来るたび、そう漏らしたものだった。

 「夏至が消えた」と判ったとき、年配の人たちは「夜に対する畏れをなくした報いだ」と酷く取り乱した。僕の祖母もその一人だった。「一日中眠ることはできないし、昼がなくなったのなら、そのときは死ぬしかないのだろうね」と不穏なことを口走ったりもした。そのたび僕は、大丈夫だよ、と祖母を宥めた。例え昼がなくなったとしても、心が溶けたりはしないよ、と。

 今年の冬至の日。一年で一番日が短いと言われる日がやってきた。もしも「夏至が消えた」というあの話が本当なら、今日からも日は短くなり続ける。今日は今年一番夜の長い日だけれど、明日は今日より夜が長いはずだ。これからは、毎日が冬至なのだろうか。そんなことを思いながら、僕は照らし火の準備を進める。祖母がどうしても今日は火を焚きたいと言ったのだった。いつもは祖母の不安を一蹴していた父でさえ、その願いを聞き入れて薪を買ってきていた。きっと、誰も彼もがどこかで不安なのだ。

 僕はといえば、少しだけわくわくしていた。少し小高い丘の上にある僕の家は、僕の住む町がとてもよく見える。小さな頃、夏至の日に家の玄関から街を見下ろすのが好きだった。町の至る所で点々と揺れる照らし火。その景色を僕は今も覚えている。「薪を探すのに苦労した」という父の話を聞いて、僕は期待していたのだ。幼い頃に見たあの夏至の日の光景をもう一度見られるのではないか、と。

 その日、至る所で照らし火が焚かれた。冬至に火が焚かれるのは、僕が生まれてから初めてのことだ。焚かれていた火の数は、僕が幼い頃に見たあの夏至の日よりも多かったように思う。「今さら都合の良すぎる話かも知れないけれど、これで夏至が戻ってきてくれればいいのだけど……」祖母は火にあたりながら言う。師走のつめたい空気の中を揺れる沢山の照らし火を見ると、そんなこともおこるんではないかと思った。揺れる灯の数だけの不安があるのだ。その数だけの願いがある。しょうがないな、と夏至も戻ってきてもおかしくないだろうと、僕は町を見ながらそんなことを思った。

 けれど、そんな人々の願いとは裏腹に、不安はその通りになってしまった。日が長くなることはなかった。その日からも、少しづつ昼は短くなり、夜の時間は長くなった。つまり、このままやはり、昼は消えてしまうのだろう。

 僕は夜が好きだった。夏至の日のあの光景が切っ掛けだったとも言える。あの綺麗な光景を見られる夜は素晴らしいものだと思ったのだ。それも、それが夜だけにしか見られないものなのならば、夜はそんなに悪いものではないのだと思っていた。夜には様々なものが姿を変えた。景色が、人が、動物が、ものが、すべてが、昼間には見せない顔を見せる。そんなところも好きだった。

 東の空から、少しづつ夜の闇が世界を覆っていくにつれて、心が鋭敏になっていくような気がした。きっとこれが、夜に溶けると言うことなのだろうと思った。心が、剥き出しになって、鋭敏になるのだ。それは心地の良いものだった。満たされたような、そんな気持ち。曖昧になった輪郭が、夜に溶け出していく。少しづつ、少しづつ剥き出しになる自我と欲望が、少しづつ、少しづつ溶け出して曖昧になる。僕はその感覚を、とても愛した。

 けれど、年を経るごとに、夜を恐れるようにもなっていった。夜に溶け剥き出しになった心は、容易に負の感情にも飲み込まれた。人が眠れない夜に他者を求めるのは、きっと心が夜に溶けるからだと知った。眠れない夜、他者の存在が、その温もりが、自分の存在を確認させる。自分の輪郭を確認させる。だからきっと人は、夜には他者の存在を、温もりを求めてしまうのだろう。けれど、いつでもそう都合良く、眠れぬ夜に他者の存在を感じ、信じられるわけでもない。独りで過ごす夜は、ときに僕たち人間の、逃れることのできない圧倒的孤独を強く意識させた。僕たちは、どうしようもなく独りなのだということを。

 夜には、そんな心地よさと、不安感が同居していた。僕はそんな夜が好きだった。夜に溶けるようなあの感覚が。けれどそれも日が昇ればこそだった。日が昇ればそれらは薄まる。夜に溶け始めていた僕の、再構築。僕が夜に溶けきってしまう前に朝は必ずやって来た。けれどいずれ、朝はなくなってしまうのだ。

 もし、夜だけが世界を覆い尽くしたら、夜は僕を最後まで溶かしきるのだろうか。冬至の日以降、僕はそんなことをずっと考えている。どんどんと短くなる昼の時間と、長くなる夜の時間。もしも最後まで夜に溶けてしまったとき――仮にそんなことが起こりうるのなら、ということだけれども――、一体どうなるのだろう。知りたいという好奇心と、恐怖があった。

 そして、その日はやってきた。

 朝は、来なかった。太陽はいつまでたっても昇ることはなく、延々と続く夜が始まったのだ。

 とはいえ、日が昇らなくなってからも、毎日は続いた。僕は夜に溶けてしまうこともなく、特に変化のない日々を過ごしていた。ただ、日が昇らなくなってからというもの、いくつかの家々の軒先では毎日照らし火が焚かれるようになった。初めは僅かだったその火も、次第にその数を増やしていき、今では結構な数にのぼる。僕は予定のないときは、部屋の電気を消して、自室からその火を飽きることなく眺めた。

 そうして、暫くのときが経った。

 朝が来なくなって、一体何年が経ったのだろう。
 街の明かりは、もう随分前に、消えた。
 もう、見下ろす風景の中に、焚かれる火の数は僅か一つだけだった。

 日が昇らなくなって一年が経った頃から、人が失踪する事件がちらほらと起こり始めた。一人で暮らす若者、老人が消えるという怪事件が各地で発生したのだ。警察の必死の捜索にも関わらず、その人たちは終ぞ誰一人として見つかることはなかった。

 僕の住む地域では、消えた人は夜に溶けてしまったのだ、と言う噂が広がった。そしてその噂は、夜の闇の中にゆっくりと広がり、少しづつ人々の心にじわりと染み込んでいった。少しづつ広がったそんな噂がネットを介して広がり、テレビで紹介されたとき、多くの人々は笑った。そんなことが本当に起こるわけがないだろう、と。だけど皆、心の何処かでそれを恐れていた。

 人は、消え続けた。とんでもないペースで人がどんどんいなくなっていった。けれど、原因は誰にも解らなかった。人々は、誰にも目撃されることなく人知れず消え、そして例外なく誰も戻らなかった。「孤独が人を消す」というまったく信憑性のない原因が唱えられ、テレビは「一人で過ごさぬように」という根拠のない対策を報道した。以前では信じられないようなその言葉は連日繰り返されたが、もう誰もそれを笑わなかった。

 街は今までよりも強く光を灯し、街の光が闇を裂いた。僕の住む地域に限らず全国各地で火が焚かれるようになり、人々は寄り添い眠った。人の少なくなった地域では、一つところに人々が集まり、暮らし始めた。根拠も証拠もなかったけれど、孤独が人を消すのだと、人々は孤独を恐れた。僕もその例に漏れず、地域の学校に行き、そこで暮らした。僕も一人になっていたからだ。まず祖母が消え、次いで両親が消えた。報道や話で聞いたとおり、唐突に、誰にも目撃されることなく、静かに消えた。

 相も変わらず朝は来なかったし、人は消え続けた。自殺者や、精神を病む人たちが激増していた。初めは孤独に暮らす人たちが消えているというような話だったけれど、今では集団生活をしている朝、目覚めたら人が減っていると言うことがざらだった。目覚めたらとなりで眠っていたはずの夫が妻が子供が消えているなんてことも多々あった。寄り添い眠る人間が消えてしまうのではないかという圧倒的恐怖に、人々は怯えていた。

 いつしか、一人で過ごす人間が増え始めた。目が覚めたときに共に過ごした人が消えているかもしれないという生活に耐えられなくなったのだ。孤独を恐れるが故の一人。なんという皮肉だろう。

 僕の暮らしていた地域の学校からも、人がどんどん減って行った。消えていった人もいれば、圧倒的な絶望に自ら命を絶ったり、精神を病んだ人もいたし、一人で生きる道を選んだ人もいた。そうしてどんどんと人が減って、残った皆は解散することを決めた。少なくなった僕たちにとって、そこは余りにも広すぎたのだ。僕は誰も居なくなった家に、人々はそれぞれ家に戻ることになった。

 バラバラになったあとでも人々は火を焚き続けることをやめなかった。遠く窓から見える火の明かりに束の間の安心を得て、そしてその数が減る度に絶望に襲われる。それでも、火を焚き続けた。

 僕は誰も居なくなった家の部屋から、焚かれた火の明かりを見ている。数え切れないほどだった明かりの数は、もう片手で数えられる程になってしまった。朝が来れば、人々は戻るのだろうか。それとも、人々は、戻らないのだろうか。僕は、握る手の強さを、少し強める。握られた手は、僕の手を強く握り返した。暗い部屋の中には、ランプの明かりだけが灯っている。そのランプの明かりが、彼女の横顔を橙色に照らしていた。

 地域の体育館から帰るその日、そこで出会い、よく時間を共にした女性が言った。「一人で過ごす孤独も、二人で過ごす孤独も、どちらも孤独なのなら二人で過ごそう」と。僕は頷いて彼女の言葉の続きを、心の中で引き取った。『いつか、どちらかが消えるその日まで』そうして、僕はその人と寝食を共にすることになった。誰も居なくなった僕の家で、僕たちは暮らし始めた。そして毎日火を焚いた。

 僕たちは、よく食べ、よく眠り、よく体を重ねた。いつか、彼女も消えてしまうのかもしれない。それは圧倒的恐怖だった。彼女もそれは同じなのだろう。僕たちは恐怖に包まれるたびに、どちらからでもなく体を重ねた。二人は貪るように求め合った。そうして倒れるようにして、二人で眠った。二人空腹に目を覚まし、ご飯を食べた。火に薪をくべて、また体を重ねた。ご飯は美味しかったし、快感はこれまでにないものだったし、眠りは深かった。剥き出しの感覚と、自我と、欲望は、二人を強く、強く結び付けた。そしてそれ故に、孤独や不安は、深く濃さを増した。

 そして、彼女も消えた。

 僕は火を焚くことを止めた。
 食べることも、眠ることも止めた。
 部屋のランプを消して、部屋の窓からただ外の火を眺め続けた。

 朝が来なくなって、一体何年が経ったのだろう。もう、見下ろす風景の中に、焚かれる火の数は僅か一つだけだった。そうして、ちらちらと揺れていた最後の火も、消えた。

 闇が僕を包む。曖昧になった輪郭が溶けはじめる。これで僕も終わりだ。そう、思ったそのとき、唐突に僕は理解した。消えた人々の行き先を。消えたその理由を。彼らは孤独に絶望し消えたのではなく、孤独を克服したのだ。体という境界線を失い、夜に溶け出した人々は、遂に一つになったのだ。夜に、溶けることで。
 
 夜が、全てを包み、溶かしていく。
 皮膚を。
 肉を。
 筋を。
 臓腑を。
 骨を。   
 そして、心を――。