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朝の電車と文庫本

創作

 『2番線電車参ります。黄色い線の内側までお下がりください』

 アナウンスの少し後に、電車がホームに滑り込んでくる。僕は一番先頭車両が停車する位置で電車を待っていた。07:28最寄り駅発の下り電車。僕はいつもその電車の先頭車両の一番前に乗る。高校との距離を考えると、どちらかといえば少し早めの電車だ。もう2本くらい遅らせても問題はないのだけど、僕はこの電車に乗らねばならい理由があった。

 僕はいつものように電車に乗り込み、奥の運転席側の隅を確認をする。そうして、そこに彼女を認めてから、運転席側の手前の壁に――つまりは彼女と向かい合わせになる様に――寄り掛かって小説を取り出した。よかった、今日もいた。

 いつも、同じ時間同じ電車同じ車両同じ場所に彼女は居た。少し壁に寄り掛かって、文庫本を読んでいる。黒くて長い綺麗な髪と、白い肌に、縁なしのメガネ。制服はこの辺では結構有名な私立の女子校のものだ。紺のブレザー、青いチェックのリボンとスカート、紺のハイソックス。上品な制服と彼女の雰囲気はとてもよく似合っていた。

 彼女は僕が学校の最寄り駅の二つ手前の駅で降りる(そこが彼女の通う女子校の最寄り駅だ)。彼女はアナウンスを聞くと、電車の減速に合わせて文庫本をそっとバックにしまう。掛けていた眼鏡を外す。眼鏡をバックにしまった頃、電車は丁度駅に停車する。彼女は長い綺麗な黒い髪をなびかせて、電車を降りる。改札に続く階段に向かう彼女の後姿を、見えなくなるまで追う。

 それが、僕の朝の日課だった。

 彼女が降りるまで約30分。このためだけに、僕は毎朝早起きをしてこの電車に乗っているのだった。これは、毎日の通学という苦痛の時間を和らげる一種薬物のような、一日をつつがなく執り行う為の神聖なる始まりの儀式のようなものだ。これがなかったら僕は多分学校に行く前に力尽きてしまう。たぶん。

 彼女もさすがに僕の顔くらいは覚えているだろう。そりゃ毎日こうして同じ電車に乗っていれば、あの人毎日同じ電車だなーくらいには思っているはずだ。そう思うと、たったそれだけで十分に満たされた気持ちになった。もしかしたら毎朝目の前に位置取られて気色悪いと思われているかもしれないけれど、都合の悪い想像からは積極的に目をそらすことにしている。どうせ僕と彼女は直接関係があるわけでもないし、話しかける勇気があるでもなく、朝この短い時間、一方的に僕が目の保養と称して彼女を眺めているだけなのだから。



 いつもの電車に乗り込むと、彼女はいつもの場所で、いつもと同じ姿勢で、文庫本を読んでいた。彼女を認めてから、僕もいつもと同じ場所に陣取って、バックから文庫本を取り出す。

 その日僕が持っていた文庫本にはブックカバーが掛かっていなかった。ブックカバーどころか、本自体のカバーも掛かっていないむき出しの状態だ。何度も読み返すうちに、歩く回数が多かった所為か、カバーが駄目になってしまったのだ。けれど、ぼろぼろになるまで読み込むそのくらい僕はこの物語が好きだった。内容はもちろん、こうしてぼろぼろになったこの文庫本そのものにも愛着がある。僕にとってこの物語は、この文庫本についた皺や、擦り切れや押し傷や汚れを含めて一つのものだからだ。それら一つ一つと結びついた、この本を読んだ当時の記憶や気持ちとこの物語は、セットなのだ。

 しばらく小説の世界に没頭していると、ふと視線を感じた。目線を上げると、彼女が僕の方を見ていた。眼鏡を外して、じっとこちらを見ている。僕は真剣な彼女の眼差しにどぎまぎして、文庫本の文字に目線を戻した。けれど、目で追う文字は目に入ってくるだけで意味を為さなかった。見なれた日本語がまるで大昔の象形文字のように見える。

 視界の端に映る彼女はこちらをまだ見ているようだ。一体何をそんなに見ているんだろう。目線としては文庫本かな。汚い本を読んでるな、とか思われたのだろうか。本を大事にしないなんて信じられない、なんて思われていたらどうしよう。眼鏡を外して遠くを見るってことは、遠視なんだろうな。ああ、もしかしたら、気持ち悪いとか思われていたのかもしれない。だとしたら悲しいなあ。

 恐る恐る視線を上げると、彼女とばっちり目線があってしまった。すぐに目線をそらそうとしたのだけれど、僕はその視線をそらせなかった。彼女が「あ」という顔をしてから照れたように笑ったからだ。

 僕は彼女の笑顔をそのとき初めて見た。僕の知る彼女は、いつも物憂げな表情で、ともすれば無表情に文庫本を読んでいる彼女だ。彼女はいつも一人だったし、彼女の笑顔に出会う機会が今までなかったのだ。彼女の笑顔は、温かくて、柔らかかった。まるで、天気の良い温かい春の日に干しておいた布団みたいに、温かくて柔らかな笑顔だった。

 「恋に落ちる」とはこういうことを言うのだと、僕は実感として理解した。さっきまで「引かれていたのかもしれない」と思っていたことなど、すべて吹き飛んだ。

 その時僕は相当呆けた顔で彼女を見ていたと思うのだけど、そんな僕に、彼女は自分の読んでいる文庫本をちょいと両手で掲げて見せた。僕はその意味が理解できずに僕の文庫本と彼女の文庫本を見比べる。彼女はまた「あ」という顔をして、慌てて自分の文庫本にかかったカバーを外し始めた。

 彼女が読んでいる本には、いつも布のシンプルなブックカバーが掛かっていた。そのブックカバーは彼女の雰囲気にとてもあっていて、僕はそのブックカバーも好きだったのだけど、彼女はそのブックカバーを外して、そこから出てきた文庫本の背表紙を僕に見せた。ブックカバーを外された彼女の文庫本は、僕の文庫本と同じように、本自体のカバーも外れて、所々擦り切れてボロボロになっていた。

 彼女の見せた背表紙に目を凝らして、僕は驚く。そこには、今僕が読んでいた小説と同じタイトルが印字されていたからだ。何という偶然だろう。僕は神様とか仏様とか、そういう超越的な存在に感謝した。

 文庫本から彼女の顔へと視線を上げると、彼女はまたにっこりと笑った。僕も思わず笑う。

 僕たちは笑みを交わした後、互いに少し照れ臭くなってお互い笑った。彼女は文庫本にブックカバーを掛け直し、物語の続きを読み始める。僕も、同じように物語の続きに戻った。けれどやっぱり、物語は頭に入ってこなかった。

 彼女も僕と同じように、同じ物語を、何度も読み返しているのだろう。きっと、彼女は嬉しかったのだ。自分が何度も読み返している物語を、何度も読み返している別の人間を見つけたことが。だから思わず、あんな風に報せたくなってしまったのだ。僕が逆の立場でも、たぶん同じようにしただろうと思う。それは決して僕の想像でもなければ、思いこみでもないと言えた。だって、それがどうしようもなく伝わったからだ。

 一言も声を発さない、ほんの1分程度のやり取りだったけれど、彼女の文庫本の皺や擦り切れや汚れの一つ一つが、僕にそれを伝えた。どんな言葉より、僕にその喜びや嬉しさを伝えてくれていたよううに、僕は感じた。僕の文庫本が彼女にも伝えてくれていたらいい。僕の喜びや嬉しさを。

 電車がゆっくりと速度を落とし始める。そろそろ、彼女が降りる駅だ。彼女はきっとそろそろ文庫本を仕舞って眼鏡を外すだろう。そして眼鏡をバックにしまうと、電車は丁度停車する。

 僕の予想した通りに、彼女は電車の減速に合わせて文庫本をそっとバックに仕舞った。眼鏡を外して、バックに仕舞う。するとまたいつものように、示し合わせたように、電車がぴったりと停車した。彼女は僕に会釈して、電車を降りた。僕も会釈して彼女を目で追う。会釈以外は、いつもと変わらない、一連の朝の流れ。僕はこの後、歩いて行く彼女が見えなくなるまで目で追うのだ。そうして学校へと向かう。

 扉が閉まった。だけど、僕の予想に反して、彼女はまだそこに立ったままだった。

 彼女は僕を見ている。僕も彼女を見ている。

 彼女が口を開いた。唇がゆっくりと、文字を紡ぐ。一文字、二文字、三、四、五文字。
 電車が動き始める。

 彼女はにっこりと笑う。やっぱり布団みたいだな。僕は思う。

 彼女は踵を返して改札へ続く階段へ向かう。僕は彼女が見えなくなるまで、その後ろ姿を追う。

 彼女の唇が紡いだ、音の無い言葉を、反芻する。

 ま、た、あ、し、た。

 僕は文庫本を開いて、物語の続きを読み始める。読みながら、文庫本の背表紙を左手でそっと撫でる。指には、押し傷や擦り傷のざらっとした感触。

 やっぱり僕は、この物語がとても好きだ。内容はもちろん、こうしてぼろぼろになったこの文庫本そのものにも愛着がある。僕にとってこの物語は、この文庫本についた皺や、擦り切れや押し傷や汚れを含めて一つのものだからだ。それら一つ一つと結びついた、この本を読んだ当時の記憶や気持ちとこの物語は、セットなのだ。

 ほんのついさっきの、胸を温める想い出も含めて。