読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

見える景色

雑記

 こないだ恋人とスノーボードに行ったときのことだ。リフトに乗りながら「リフトが落ちたらどうするか」というくだらない話に花を咲かせていると、一つ前のリフトを指差しながら恋人が言った。

「前の子供たちが乗るリフトが落ちるよりなら、まあこのリフトが落ちる方がいいよね」

 自分からはきっと、逆立ちしてもこんな言葉は出てこないと思う。そういえば以前もこんなことを思ったな、と記憶が蘇った。もうずいぶんと経つような気がするけれど、相変わらずだ。同じ景色を見ていても、きっと違った景色が見えているのだろう。昔も、今だって。

 数年前の梅雨時、就職したばかりの頃だったと思う。土曜日だった。外は雨が降りそうな――今にも泣き出しそうなとでも言えばそれっぽいか――空だった。実に嫌な天気だった。

 恋人と電車で原宿に向かったのだが、駅から出ると外はひどい雨だった。家を出るときは降っていなかったからと傘を持ってこなかったせいで、傘は二人でいるのに恋人の持ってきた1本だけだった。傘を持つのも、傘を差すのも余り好きじゃないのでこういうことが割としょっちゅうある。

 途中、恋人が持ってきた傘の調子が悪くなってしまったので新しい傘を買った。表参道のコンビニは、傘を買う人たちで溢れていた。レジの中には、袋から出されてすぐに使用できるようになった傘が大量に用意されていた。立地的にもこんな天気の日にはきっと飛ぶように売れるだろう。事実、売れている。こういう日のために大量にストックしているのだろうか。傘だけでどれくらいの儲けになるんだろう。利率はそんなによくはないだろうけれど、それでも……そんな風に考えてから、溜息を吐く。近頃、なんでもかんでも金と結びつけて考えてしまっている。外に出て傘を差す。新しい傘は、妙に透明で、張りのある傘に雨があたると、ばらっばらっと傘の上で雨粒が跳ねた。

 少し表参道から外れた、ある店に寄った。雨のせいか、店内には人がほとんどいなかった。一通り店内を見てから(お高いお店なので大抵は冷やかしで終わってしまう)入り口に戻ると、傘立てには傘が1本もなかった。もちろん、さっき買ったばかりの傘も。しばらく途方に暮れてから、とりあえず煙草を吸おうか、ということで落ち着いた。一軒家のような店のひさしで雨宿りをしながら、煙草を吸う。雨が止む気配はない。少し外れた場所にあるこの店から、コンビニまでは大分距離がある。行くまでにびしょ濡れになってしまうだろう。

 店内から買い物を終えた男性が出て来る。右腕にはその店の袋を掛けていた。大きな袋だ。彼は傘立てをのぞいて傘を探すそぶりを見せたけれど、傘立てに傘は1本もない。きっと彼の傘も盗まれてしまったのだろう。彼はしばし空をにらんでから、雨の中を小走りで走っていった。せっかく買い物をして、いい気分だったろうにな。大きな袋を揺らして走る背中を見ながら、思う。

 「お店の人に置き傘とかいらない傘がないか聞いてみようよ」

 煙草を吸い終わると恋人が言った。あるかなあ、くれないんじゃないかな。何も買ってないし、ちょっと後ろめたいなあ、とうじうじ思いながら店内に戻る。

「すいません。傘がなくなってしまったんですけど、置き傘かなにかあれば頂けないでしょうか」

「まじすか。雨酷いすもんねぇ。ちょっと待っててください」

 店員さんはとても気さくな表情で言いながら内線に電話を掛けた。どうやら傘が事務所にないかどうか確認してくれているらしい。電話を切ると彼はにっこり笑った。「いらない傘、沢山あるみたいなんで」

 店の裏へと向かって戻ってきた彼は、傘を2本くれた。2人で心からお礼を言って、店を出る。

 表参道には沢山の人がいて、沢山の傘が揺れていた。頭上でも。隣でも。買った傘は大体400円くらいだった。その傘は10分程度で誰かに持っていかれてしまった。今、手元には2本の傘がある。新品ではないし、決して綺麗なものでもない。けれど、その傘の価値は金でははかれないものだ。

 2人、もらった傘を差しながら歩いているとふと恋人が言った。

 「あの濡れながら走っていった人も傘貰えたら一番よかったね。だってそうしたら、傘をとった人も、彼も、みんな濡れなかったわけだし」

 はっとして、恋人を見る。自分からはきっと、逆立ちしてもこんな言葉は出てこない。

 やはり、同じ景色を見ていても、彼女には違った景色が見えているのだろう。想像はできるけれど、恋人の見る景色を自分はどうしたって見ることができない。時折言葉の端々にちらとのぞくだけ。けれど、時に垣間見えるその景色を、決して自分には見ることのできないその景色を、とてもとても愛しいと思う。昔も、今だって。