軍曹とおっさんは机の脚に小指ぶつけて悶絶したらいいと思う。

 結構前の帰り道での話。

 帰りの電車で完全に眠りこけてしまった。目を覚ますと、そこは乗換駅から四つも過ぎた駅だった。通勤通学に電車を利用する人なら『寝ていた人が目を覚ますなり首を左右にふりふり駅名を探し、慌てて電車を降りる姿』を見たことがあると思う。大の大人が慌てふためいて行動する姿、というのはこういう機会でもないと日常で目にする機会はそうそうない。個人的に「慌てる」というのが余り好きではないので、さも「ここが俺のホームタウンだぜ??」みたいな雰囲気でゆっくり立ちあがって、悠然と電車を降り、そうすることが人類の摂理であるといわんばかりの様子で逆のホームに向かった。こういうの、開き直り、っていうらしいぜ?

 折り返しの都心に向かう電車はかなり空いていた。まばらに人が座っていて、立っている人はいなかった。一番端の席に座りたかったので、優先席左端に座る。優先席には、自分の座った向かいのシートに20代後半くらいのメガネの私服男性が座っているだけで、他に人はいなかった。男性は、携帯電話を両手でもって熱心にボタンを操作していたが、それがゲームなのかメールなのかは判断できなかった。ストラップのケロロ軍曹が激しく揺れていた。邪魔じゃないのか、それ。軍曹は酔わないのか。吐くんじゃないか。

 ケロロ軍曹(便宜的にメガネの男性をこう呼ぶ)が座っているのは優先席だ。ここ東京では、優先席付近では携帯電話の電源を切るのが一応「マナー」になっている。まあ、他の地域でどうなのかを知らないけど、たぶん同じだろう。個人的には、こんなマナーなくなりゃいいのになー、と思っているのだけど*1、一度「マナー」認定されると「マナーの中身がどうであるか」は関係なく、「マナーを守る」ことを最重要視する人達が一定数世の中には存在する。実際、優先席付近での携帯使用を注意されているシーンを何度か見ている。なので、なるべく優先席付近では携帯を取り出さないようにしている。けれど、軍曹はそんなことお構いなしのようだった。まあ、そもそも人がいないし、個人的には「どうでもいい」。けれど、それが甘かった。「個人的にはどうでもいい」こんなことを考えるって言うのは、つまりそう、フラグを立てたってことだ。

 次の駅で、何人か人が乗り込んできた。優先席には、高尾山帰りっぽい60代くらいの男女が乗り込んできた。女性2人と男性1人。自分の隣にそのままの順番で座った。男性は恰幅がよく(というかビール腹で)、やたらテンションが高く、無駄に声がでかかった。個人的には余り得意ではない(というか苦手な)タイプなのだが、まあよく言えば気さくなおっちゃん、という感じに見えた。女性2人は、あまり印象に残っていない。

 電車が動き始めた辺りで、おっさんは向かいの席に座るケロロ軍曹が携帯を使っているのに気付いたようだった。

「おい兄ちゃん、携帯の電源は切りなよ」

 見た目通り気さくで(人によっては馴れ馴れしい)、穏やかな注意だったと思う。が、軍曹はちらっとおっさんを見たあと、何事もなかったかのようにそのまま携帯をいじり続けた。音量は前述のとおり大きめなので、聞こえていないということはないだろう。つまり、無視である。おっさんは隣の女性に「聞こえてないのかもな」と言って、もう一度同じことを繰り返した。が、やはり軍曹は完全に無視。今度は反応すらしなかった。指以外死んでいるかのように無反応だ。もしかしたら揺れ続けるケロロのストラップこそが本体なのかもしれない。

「おい兄ちゃん、ここは優先席だぜ、しまおうや」

 おっさんも無視されていると思ったのだろう。映画のような言い回しで責めるのだが、軍曹は徹底して無視。おっさんの言葉は次第に荒くなった。

 とっととしまっちまえばいいのになー。と思いながら電車の振動に合わせて揺れるストラップもとい軍曹を眺めていた。今現在、優先席付近での電源オフは効果のあるなしに関わらず「マナー」として定着してしまっている。だから、軍曹は「マナー違反」をしている状態だ。おっさんは、それを注意する、という「善」の立場にいる。おっさんは自分の正しさを疑ってはいないだろう(だから注意をするのだし)。軍曹がどういう意図で無視し続けているのかは知らないが、この手のおっさんは、そういう対応には逆上することが多い(経験則)。特に、女性の前でここまで無視(こけに)されたらプライドにも傷がつくだろう。ここでおっさん一人に逆らったところで別に何が変わるわけでもないし、とっとと携帯しまうなり、優先席から離れればいいのに。ていうか、おっさんがうるせえから軍曹には是非そうして欲しい。というかそうしろ。うるせえ。

 などと好き放題に考えていたら、予想外におっさんが黙った。正直意外だった。のれんに腕押しと思ったのかもしれない。おっさん、「逆上する」とか思ってごめん。と心で謝ってたのだが、団塊の世代というやつを舐めていた。静かだったおっさんは不意に立ち上がり、軍曹の携帯を右の平手で吹っ飛ばした。吹き飛ばされた携帯は床に落ちた後もその勢いを損なわず、床をぴゃーっと滑っていった。おっさんに謝ったのがアホみたいだ。おっさんは嵐の前の静けさだっただけだ。老婆A、Bがひあっ、と耳元で可愛らしい声を上げたのが印象的だったがそこに喜びを見いだすにはまだ少し年齢を重ねる必要がありそうだった。

「何すんだよ!」

 軍曹が叫ぶ。ずっと無視を決め込んでいた軍曹初めてのまともな反応。どうやら人間の方が本体だったらしい。もしストラップが本体だったら軍曹は間違いなく死んでいただろう。

 軍曹は吹っ飛ばされた携帯を拾いに歩いて行く。おっさんは自席に座って「これぐらいしないとああいうのは言うこと聞かねえんだ」と女性たちに言った。満足気だった。あー本当このおっさん嫌い。

 結構遠くまで吹っ飛んでいった携帯電話を拾った軍曹は、再び優先席に戻ってくると、どっかと席に座って携帯をいじり始めた。たぶん壊れていないかの確認だったと思うのだけど、戻ってくるんじゃねえよ、と思わずにいられない。当然おっさんはその姿にさらに腹を立てて、「優先席以外でやれって言ってんだろうが!」などとがなりながら、おもむろに軍曹の足元に置かれた鞄を掴んだ。多分、軍曹が動かないからバッグを、とでも思ったのだろう。軍曹はさせまいと鞄を掴み、おっさんと軍曹で鞄の引っ張り合いをはじめた。漫画などでよくあるバーゲンでの掴み合いのような絵だった。まさにカオス。訳が分からないよ。

 バーゲン品(軍曹の鞄)の奪い合いに勝利したのは軍曹だった。おっさんも60歳くらいのビール腹男性だし、軍曹はそれなりに体格も良いのでまあそうなるだろう。バーゲン品を奪い損ねたおっさんは、憤懣やるかたないといった具合で、顔を上気させて何事か日本語と似た言葉を喚いたあと、軍曹の足に向かって不格好な前蹴りをお見舞いした。

 さて、ここで何点か確認したい。一点目。舞台は電車内だ。走行中の電車内は思いのほか結構揺れる。二点目。「蹴る」という行為は、Wikipediaの「蹴り技」という項によれば『立ち位置から片方の足を相手めがけて繰り出し、打撃を与えるもの』だ。つまり、「片足立ちになる」ということを意味する。三点目。この世界には作用反作用という物理法則が存在する。以上三点から導かれる結論はつまり、そういうことだ。

 揺れる車内で、不格好な蹴りを放ったおっさんは、軍曹を蹴ったことによってバランスを崩し座る自分の足に背中から倒れ込んだ。アホ過ぎる。あと何よりも、痛え。

 おっさんが立ちあがって言い放った第一声が謝罪ではなく「この糞野郎!」という多分軍曹に対する謎の罵倒だったので「お前がいい加減にしろよ」と思わず言ってしまっていた。周囲の時間が止まったのが解るが、もうどうしようもないので立ちあがって続けた。

「二人とも迷惑だから次の駅で降りるか大人しく座ってろ。兄さんはいい加減携帯しまうか席移動するなりしてくれ」

 そこでおっさんが「なんで俺が言われなきゃならねえんだ!あいつが〜」というような具合に反論したので腹が立って遮った。凄い興奮してるのも鬱陶しいし、あと物理的に距離が近い。

「優先席で携帯使うなってのがマナーだってのは分かるけど、携帯ふっ飛ばしたり蹴りいれるのはどうなのって話。携帯注意したことが悪いとか言ってないし思ってないから。あと、人に倒れ込んどいて謝罪の一つもないのが個人的に一番気に入らないし、もし隣のばあさんに倒れてたら怪我してたかもしんないよね。だから"二人とも"すげえ迷惑だって言ってんだよ。これ以上やんなら降りてやれ。子供もいんのに恥ずかしくねえのかいい歳した大人が」

 おっさんはまだ何か言いたげだった(というか何か言っていた)が、黙って睨みつけてたら黙って憤然とした様子で椅子に座った。軍曹は何も言わずにバッグ持って隣の車両に移った。

 その辺ではっと冷静になって気付いたのだが、このままこの車両にいるのも、この席に座るのも気まずい。かといって車両移動するのもなんか嫌だ。そうして結局、次の駅が来るまでドアの前で待機し、次の駅で二人ではなく自分が降りましたとさ。

 大分前の話なのだけど、今思えば超ブーメランなんだよね。おっさん相手にあの口調で啖呵切ったら結局一緒だ。外から見てれば恐いお兄ちゃんがもめ事に参戦したようにしか見えないだろう。子供に恥ずかしくないのかって意味だと、たぶん自分自身も恥ずかしい。本当なら「まあまあ」とか言いながら上手く場を収められるのが理想的だった……と、いい子ちゃん発言をしたあとでこんなこと言うのはなんだけど、軍曹はとっとと席移動すれば良かったし、おっさんは個人的にうざかったので、机の角に小指とかぶつけて悶絶するような地味に不幸に見舞われていたらいいなーと思います。

*1:将来的に携帯電話のもっとよくない影響が判明して規制されることはありうるだろうけど、今ん所はまったく無駄どころか逆効果なマナーだなーと思っている。理由についてはこの辺とか読んで推測して下さい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%87%93%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC#.E9.9B.BB.E7.A3.81.E6.B3.A2.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E5.BD.B1.E9.9F.BF