いつか親になるかもしれない自分のために

 今日はあるTogetter読んでて思ったこと。長いです。当該のTogetterはこれ。タイトルはちょっと中身とズレがあるけど、内容については見て欲しい。

 Togetter『公共の場で騒がない子は立派に育つのか?』
 http://togetter.com/li/139052

 ここにいるお母さんたちの言う「大変さ」というのは、事実あるのだろうと思う。色んなところで勝手に色々言ってくる他人というのは確かにいる。その上で、そういう謂れのない非難や文句みたいなものを上手く消化できない、という人もまたいるだろう。過去と比べて子育てサポートが得にくい現代では、「子育て」の不安は解消し辛いと思う(孤育て、なんて言葉があるくらいだ)。そういう不安を抱えた親にとっては「なんでもないような言葉」でも、その不安に拍車がかかるのだろう。不安定な状態だと、案外なんでもないことでも「ぐらつく」ものだ。だから、「ああしたら文句を言われるし、こうしても文句を言われる。じゃあどうしたらいいの」となるのは仕方ないことなのかも知れない。自分には子育ての経験がないので実感としては理解はできないが、そういう風に想像はできる。

 さて、コメント欄でも何人かが触れている、客観的に「世間は母親をどう見ているか」を考えると、(凄いざっくり想像で言えば)、少なくとも東京の場合、結構多くの人が「無関心」だと思う。そんなにいちいち親のこと気にしてないし、どうでもいいって人のが数としては多分多い。何故なら他人だからだ。その時々に思うことはなんかあっても、何かアクションを起こすほど関心を持つ人はたぶんそんないないんじゃないかと思う。

 とはいえ、やっぱり時と場合と人による部分がかなり大きい。

 人に対する評価って、その人の価値観や気分でかなり変わる。例えばギャルに対する嫌悪感を持ってる人ってのは世の中に一定数いて、そういう見た目というだけで「ろくでもない育て方してるに決まってる」とか思う人もいる。そういう偏見ってのは腐るほどあるし、当然自分自身にもそういうのがある。あとはたまたま虫の居所が悪かったら、それだけで他人に対する評価が厳しくなるってことも当然あるだろう。だから、親(の子育て)に対する評価も、そういう人それぞれの価値観や気分とかそういう恣意的な基準で決められている。

 そう考えたとき、ずっと子供のことを考えてこれからも子供を育てる「親」と、恣意的な基準で一瞬だけを見て判断する「他人」では、そもそもその意見に対する責任感が全然違う。特に、一瞬一瞬で判断して、「子育て方法」に対して「文句」を付けてくるような場合、それは大抵「私が不快だからこうしろよ」という要求が殆どで、親や子供のことを考えた意見ではないことが多いだろう。(当然、先人の知恵的に参考になる意見というのもあるだろうけど絶対数は少ないと思う)。

 逆に、悪いことだけじゃなくて、きっと親に対して協力的な感情を抱いている人もいる。労いの言葉をかけてくれる人もいるだろうし、無関心な大多数の人もそこまで馬鹿ではないし狭量でもない。子供が泣くことを知っているし、子供が走り回ることを知っている。そして、親が困っていることや、注意しているのも基本的に見えている。(もしその無関心な大多数すらも親に対して関心を持つのなら、それはよほど善い方か悪い方に過激な時くらいだろう)

 けれど、「不安」になっている親にとっては、「嫌な意見」や「冷たい視線」みたいなものに目が行きやすくて(ないし冷たいと感じやすくて)、そういうプラス面には中々目が行かない。それは別に親とかに限らず言えることで、不安な時は、往々にして悲観的な思考に引っ張られやすいし、悲観的にものを見るし、悲観的な意見はよく聞こえる。

 だとすると、予想される事実として「実際他人はそんなに親に対して冷たくない」というのがあったとしても、その根本的不安が消えない限り、いくら事実を言っても意味がない。というのは、その当人(親)にとっては「世間は子育てする人にとって冷たい」が事実だからだ。そうとしか感じられない以上、それはその人にとっての事実だろう。

 だから、ここ(Togetter)での重要なポイントは「不安」だってところだと思う。だとすれば、考えるべきは「その不安をどのようにして解消するのか」ということだ。世界を規定するのはいつだってその当人だ。当人にとって絶望に満ちた世界なら、事実や数字がどうであれ、世界は絶望に満ちている。どうしたらその人が世界をプラスに規定出来るのか。つまり、不安を薄められるのか。(これ、原発関連についても言えることだと思うのだけどね)


 で、仮に問題が本当にそれであっているとしてだけど、対処方法は二つあると思う。一つは、その個人に対する援助。もう一つは、社会をよりよく変えること。

 ここで気をつけたいのは、「社会を変える為の行動(言動)」と「今この瞬間不安な誰かのための行動(言動)」とを、はっきりと切り分けて考える必要がある、ということだ。もう少し突っ込んだ言い方をするのなら、よりよい社会を作る為にする話と、個人に対する援助についての話は、重なる部分もあるにせよ、切り分けて議論をしないと話が噛み合わずに迷走する。

 で、その対処法について。後者の方の社会を変える――つまり、世間一般の多くの人たちの意識を変える、という方だけれど、これはとても難しいし、その上時間がかかる方法だ。動き出すときは急だけれど、動きだすまでは決して早いとは言えない。パラダイムシフトは、急には起こらない。けれど、だからこそ、親の子育て不安のことや、子供という生き物が言うことを聞かないことや、そういうことについて声を上げて周知すること、議論をすることに意味がある。現代にはTwitterやなんかのSNSというコミュニケーション基盤がある。以前と比べれば、そういった声は多くの人に届きやすい環境がある(とはいえ日本においてのTwitter人口はまだまだ世論を形成するまでには至っていないように見える)。そうして上げ続けた声が、少しづつ、少しづつ社会が変わる下地になっていくと、個人的には思っている。

 で、それとはまた別に、今この瞬間不安を感じている人たちに対する援助や、そういった人たちが気軽に助けを求められる場所があればいいんだと思う。おそらくそれも、TwitterSNSを使うことで少しは軽減できるんじゃないかなーと思う。同じような境遇の人たちと出会うことで、アドバイスしたりされたり、励まし合ったりしながら、不安から少し逃れられることもあるだろうと思う。

 例えば、実態としてどうなのかはしらんけどこんな記事もある。
 asahi.com(朝日新聞社):〈はぐ〉孤育て――心の支えはツイッター
 http://www.asahi.com/special/hug/TKY201008100230.html
 asahi.com(朝日新聞社):〈はぐ〉続・孤育て――ツイッター、支え支えられ
 http://www.asahi.com/special/hug/TKY201009060180.html

 大切なのは、孤立してしまわないことだと思う。それが現在では難しいことなのだろうけれど、それでも孤立すればするほど、不安は増幅するし、不安が増えたら増えた分、また視野が狭くなって見えなくなるものが増えてしまうから。それもまた、別に子育てに限らず同じことだ。一人で何もかも考え、広い視野を保てる人は、そうそういない。

 まあ、実際言うのは簡単で、こんなことを言ったところで「今まさに不安な親」に対してなんの助けにもならないんだろうけど、ただまあ、そういう風に「不安」になっている人も居るし、そういう風に「不安」になるくらい子育ては大変なことなんだ、ってくらいは認識しておこうと思うし、認識したよ、ということを表明しておこうと思う。

 そして、不安な人には届かないのだとしても、世間の大多数はやっぱりそこまで冷たくはないって言いたい。子供が走り回るのも、泣くことも、言うことを簡単にきかないのも、全部どうしようもないことで、むしろそれで自然だってこと、知っている人は当然いるし、多くの人は「親が悪い」と思ってはいないと思う。少なくとも、これを書く自分はそういう風には思ってない。もしもそういう意見が見えにくいのなら、こうしてちゃんと声に出そうと思う。もし今度、電車で泣いた子供と困った親を見たら、子供に向けて変顔するくらいしようと思う。

 他でもない、いつか親になるかも知れない自分と誰かのために。

 おわり。