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物語の結末は

 一昨年の初夏に、こんな日記を書いた。

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 出勤時、相当な寝坊をしない限り、同じ時間、同じ車両の電車に乗ることにしている。同じ時間、同じ車両に乗る人達というのは他にも当然いて、そういう人達とは、定期的に顔を合わせることになる。

 曜日によっていたりいなかったりするあの人は恐らく学生なのだろう、とか、平日に毎日顔を合わせるのは恐らくサラリーマンなのだろう、とか水曜だけ居ないあの人は不動産業なんだろうか、とか、そんなようなことを色々と考える。その人達の服装や髪型等々の変化から、勝手な想像したりするのが、朝のどうでもいい日課の一つだ。

 そうした「毎日乗り合わせる人達」の中に、あるカップルがいる。もしかしたら夫婦かもしれない。朝、駅に向かって歩く自分を、お揃いの自転車に乗った二人が抜かしていく。彼らが少し離れた駐輪場に自転車を止めてからホームに辿り着く時間と、そのまま歩いてホームに辿り着く時間は大体いつも同じだ。

 二人とも、どこかの企業に勤めているのだろう。彼は常にスーツで、彼女はビジネスカジュアル、といった装いだ。二人とも、歳は恐らく30前後だと思う。男性は、いつも眠たそうで、一見すると不機嫌そうに見えた。癖のある髪を「会社の既定の長さまで切っただけ」というような髪型だったけれど、その癖毛の柔らかさや、さっぱりとした髪型が、一重で切れ長の目や、不機嫌そうな表情から受ける印象を和らげるのに一役買っていたように思う。女性の方は、背中の中程まで伸びた長い綺麗なミルクティー色の髪と、大きな二重が印象的な可愛らしい人だった。目はどちらかというと垂れ目で、どこか不安げな表情に見える。背は比較的高い方だと思う。多分165くらいはあるんじゃないだろうか。(最近気付いたのだが、彼女は夏帆によく似ている)

 彼らの間には基本的に余り会話がない。けれど、時折彼女が彼に話しかけて、二、三言葉を交わすことがあった。男性はあまり表情を変化させずに対応することが多かったけれど、ごくごく稀に笑うこともあった。笑うと、とても優しそうな顔になるのが印象的だった。女性の方は、彼と比べると話すときには微笑むことが多くて、笑うと目が黒めがちになった。彼が笑うと、彼女の周囲の明度が一段階上がったように感じるくらい、不安げな表情がぱっと明るくなる。それは、きっと彼がとても好きなんだろうなと、そんな風に思わせる笑顔だった。

 二人はそんな風に車内の時間を過ごして、彼女は俺と同じ乗り換えの駅で降りる。乗り換えの駅が近づくと、彼女は彼に何か耳元に口を寄せて声をかけると、彼は一つ頷いて、彼女が降りるのを見送る。彼女は階段を昇る手前で、彼の方へちらっと視線を送る。そうして、乗り換えの電車に向かってエスカレータを歩いて登っていく。それは、毎日繰り返される二人の朝の一連のやりとりの一つなのだろう。

 その二人の様子は、見ていてとても平和で、個人的にはとても好きな同乗者だった。だから、その二人については、他の同乗者に比べて細かく観察していたし、そのせいか色々と想像することも多かった。結婚はまだっぽいな。同棲じゃないかしら。とか。彼女の方が彼に夢中って感じがするなぁ、とか。今日は彼氏の方がいつもに増して凄く眠そうだ。昨日夜更かしでもしたんだろうか、とか。そういう下らないことを考えたり考えなかったりした。


 とある月曜日。いつもの車両が止まる位置に向かうと、そこに、見慣れないショートカットの女性が立っていた。初めて見る人だなぁ、と思って近づいていくと、それは例の女性だった。え、髪の毛切っちゃったんだ、という驚きが最初。そして、そこに彼が居ないことに気が付いたのは、そのすぐ後だった。

 少なくとも、あの二人とは三か月以上の時間同じ電車に乗っていた。寝坊して電車に乗り遅れない限り、彼らは必ず同じ時間、同じ車両の電車にいた。どちらかが居ないなんてことは、今まで一度もなかった。

 彼はどうしたんだろう。風邪でもひいたんだろうか。それとも出張。もしくは今日は会議があるので早めの出社。当たり障りのない理由ならいくらでも思いついた。けれど、彼女の長かった髪が急に短くなっていたことや、コンシーラーで隠しきれない目の下の隈なんかに気付いてしまうと、二人に何かがあったんじゃないかと、無粋な想像をしないわけにはいかなかった。当然、その隈だって仕事が忙しかったとか、理由はいくらだって想像できるし、「振られたら髪を切る」が実際に実行されるのかは謎だ。自分に分かるのは「先週の金曜日までこの時間に通勤していた二人が、一人になった」ということだけだ。

 次の日。いつもと同じ時間、同じ車両。彼女は一人だった。乗り換えの駅までは大体20分間。いつも彼と二人で立っていた位置に、彼女は一人でいる。音楽を聴くでもなく、本を読むでもなく、携帯を見るでもなく、地下鉄の窓の外に映る、全く代わり映えのしないコンクリートの壁を見ている。別れたか否かに関わらず、いつも二人だったのが、一人になるのは寂しいだろうな。そんなことを考える。

 乗り換えの駅で、電車を降りる。彼女とは乗り換えの電車も同じだが、いつも乗る車両が違う。乗り換え電車のホーム、二つ離れた乗車口で彼女は電車を待っている。それを見ながら、明日は二人が一緒ならいいのだけど、とそんなことを思った。

 水曜日、同じ時間、同じ車両。その日も、彼女は一人だった。

 木曜日。やっぱり彼女は一人だった。

 朝、彼とお揃いの自転車で、彼女は一人俺を抜かしていった。ホームで彼女と目が合う。向こうも流石に自分の顔くらいは覚えているだろう。けれど、当然挨拶をするなんてことはなく、お互い直ぐに目をそらした。

 彼女は相変わらず不安げな表情を浮かべている。それが彼女のデフォルトの表情なのは解っていた。けれど、二人は何か上手くいっていなくて、離れてしまったのではないか。いつもどことなく不機嫌そうな彼の気持ちは、もう彼女から離れていたのではないか。そういえば、いつも話しかけるのは彼女だった。彼は滅多に笑わなかった。なんて、今まで見えていた景色に、違う意味が付与されていく。そんな嫌な想像をどうしてもしてしまう。

 でも、二人に何があったかなんて、分からないことだ。彼が彼女を「振った」みたいになっているけれど、実際は彼女が彼に別れを告げたのかもしれない。ふったふられたなんて話はなく、彼は転勤になったのかもしれないし、ただの出張なのかもしれない。けれど、もし二人が別れていたのだとしたら、とても哀しいな、と思う。

 電車に乗り込む。彼女はいつもの位置で、窓の外に目を向けた。

 いつも二人だった朝の道を、お揃いだった自転車に一人で乗る気持ちは、一体どんなだろう。いつも二人だったから、音楽も聞く必要も、本を読む必要も、携帯を見ている必要もなかった。一人になった彼女は、その一人の時間の過ごし方がよく解らないのかもしれない。繰り返す日常の中の、当たり前の景色が急になくなってしまったときの喪失感は大きい。いつもそこに居た筈の、いつも目の前にいた彼が居ないという事実を、毎朝突きつけられる朝の電車内の気持ちは、ちょっと余り想像したくない。

 そんな風に、勝手に彼女の気持ちを想像して、やめる。分からないことじゃないか。

 そう思いながらも、視線はやっぱり彼女の方へ。彼女はいつもの不安げな表情のまま、音楽を聴くでもなく、本を読むでもなく、携帯をいじるでもなく、今日も窓の外の変わらない景色を見ている。今日も彼女の眼の下には、隈があった。

 いつもと同じ時間、同じ車両。きっと明日も彼女はそこにいる。明日も彼女は一人だろうか。きっと、一人だろう。そんな気がする。きっと彼女は、いつもと同じ不安げな表情で、電車を待っている。俺は、どうしても気になって、彼女を見て、物語を勝手に想像するだろう。彼女はそんなことは知る由もなく、電車で手持無沙汰に窓の外を見るだろう。また、ふと目があっても、直ぐにお互い目をそらすだろう。だから、二人が一緒にいない理由を自分が知ることはないし、毎朝同じ電車に乗り合わせる人間が、こんなことを考えているなんてことを彼女が知ることもまた、ないだろう。

 朝、電車に乗っている沢山の人。その全ての人それぞれに物語があって、それぞれ、色んな想いを抱いて電車に揺られているのだろう。

 朝の電車は、その物語の中で繰り返されるありきたりな一場面にすぎない。他人から見れば、自分はたまたまそこに居合わせるエキストラだ。彼女を中心として進む物語に、自分は毎朝同じ時間同じ車両に乗る脇役として登場する。自分を中心として進む物語での彼女の位置づけも、今まではそうだった。けれど、今週、彼女はそれなりに意味を持つ存在として、毎朝登場している。そんな彼女の物語に想いを馳せる。今、この瞬間も、彼女の物語は彼女の物語として続いている筈だ。

 彼女は今どうしているだろう。

 彼と一緒に、布団に横になって今日のことなんかを話していたらいい。彼は時折、あの優しい顔で微笑んで、彼女はくすぐったそうに笑っていたらいい。そうして二人、くっついて眠ってたらいい。彼女の物語が、そんな風であったらいい。

 そんなことを、とても身勝手に考えている。

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 この日記を書いてからも、彼女とは相変わらず同じ電車だった。しばらく経つと、彼女の耳にはイヤホンがされるようになり、文庫本を手に持つようになった。きっと、一人の通勤電車に慣れていったのだろう。そういう小さな変化に、時間の流れを感じたりして、少しだけ切なくなったりもした。

 あれから一年以上が経った、去年の初秋のことだ。

 朝、いつもの電車に乗り込むと、彼女が乗ってきた。彼と、一緒に。

 驚きと、安堵。勝手な話だが、一人電車の中でとても嬉しかった。

 結局空白の一年以上の間、彼らの間に何があったのかは分からない。そこにどんな物語があったのだろう。彼女の不安げな表情や、伸びてきた髪、相変わらず眠そうな彼の顔や、時折浮かべる笑顔なんかを見ながら、彼らの間にあった一年という時間を思う。それはいつだって想像でしかないけれど、一つだけ確かなことがある。その物語の結末が、ハッピーエンドだってことだ。

 日常の至るところに、物語は潜んでいる。