ひまわり
昔々、夜の空には二つの大きな星が浮かんでいた。一つは月、もう一つは月の妹だった。姉妹は夜になると太陽の光を受けて光を放ち、地上を照らした。地球から見るその姉妹は、ため息が出るほど美しかった。
月の妹に名前はない。その時代、言葉はまだ存在していなかった。だから当然、月にも月という名前はなかったし、彼女にも名前はなかった。
後に姉は、人間によって『月』という名前を与えられた。暗く、恐ろしい夜を優しく照らす彼女は、人間たちから崇められ、畏れられ、愛された。一方月の妹に名前はない。妹は名前をつけてもらうことができなかった。なぜなら、言葉が生まれるよりも前に、彼女は死んでしまったからだ。だから、星としての彼女に名前はない。
けれど、名前があろうがなかろうが、そこに彼女は確かに浮かんでいた。彼女は姉とともに地球の夜空を彩り、柔らかく地上を照らし、姉と同じように、崇められ、畏れられ、愛された。
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月の妹である彼女は、ごつごつとした自分の無味乾燥な姿が嫌いだった。そんな自分を醜いとさえ思っていた。けれど、太陽が照らしてくれた時の自分だけは好きだった。反射する光の強さやその色が好きだったし、それらが一刻一刻形を変えるところも好きだった。そして何より、太陽の力が及ばない地球の夜に、その日を反射して地上を照らせることが嬉しかった。太陽に近づけたような、そんな気持ちになれたから。彼女は、こんな自分を、少しでも好きだと思わせてくれた太陽に、ひっそりと、小さな恋心を抱いていた。
当然、太陽は彼女だけを照らすわけではない。そもそも、何かを照らそうと思っているわけでもないのだ。太陽は、ただ太陽としてそこに在った。姉である月も、地球も、その日の届く範囲ならどこでも、太陽は分け隔てなくその日を降り注いだ。だからこそ、彼女はそんな太陽が好きだった。きっと太陽が自分だけに、月だけに、地球だけに光を注ぐようであったら、きっと彼女は太陽を好きにはならなかっただろう。ただ生きるだけで、様々なものに力を、美しさを与えられる太陽が、彼女は好きだった。
そんな彼女だからなのだろうか。夜になり太陽の光を受けた彼女の姿は、姉である月が羨むほどに美しかった。
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ある日、彼女は太陽の様子がおかしいことに気がついた。太陽の表面に見えていた黒い点が、どうにも多くなったように思えるのだ。心なし、日の光や強さが弱くなっているように彼女には思えた。気のせいだろうと誤魔化したものの、日を重ねるごとに黒い部分は目に見えて増えていった。増殖は加速度的に増え、黒い点はあっという間に太陽を覆い尽くしてしまった。彼女や月を美しく照らした光は完全に失われてしまった。太陽はぶすぶすと燻って、黒の隙間から燃えるような赤を時折噴き出した。それはさながら噴出する血のようだった。
他の星たちも皆、太陽の異変に動揺していた。その姿を不吉だというものもいたし、その姿に死の影を重ねるものもいた。
そんな時、たまたま近くを通りがかった流星団があった。太陽の話題で持ちきりの星たちは、各地を旅する流星に尋ねた。太陽はどうしてしまったのかと。
「あれは、燃える星特有の不治の病だよ」
若い流星がその問いに答えた。その病にかかった星は表面が死んで硬くなり、自身のつくりだした殻に閉じ込められてしまうらしい。そうして、その中で燃えつづけた結果、自らを燃やしつくして死んでしまうというのだ。
「どうしたら太陽はもとに戻るの?」誰かが尋ねた。
「もし、あの殻を破ることができたら、あるいは」
でも、と若い流星はつづける。
「その殻はとても硬くて、君たちがぶつかったくらいではびくともしない。それどころか、ぶつかった方が粉々になってしまうんだ」
若い流星は、以前ともに旅した別の一団があの病に冒された星を救うために全滅した話をしてくれた。流れ星でさえも打ち砕けぬその殻を、ただの星である彼女たちが砕くことなど不可能だった。
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流星団が去ってからも、彼女は太陽を眺めつづけた。ほとんどの星たちが太陽を諦めていたけれど、血のように赤い炎を噴出する太陽を、諦めることなどできなかった。太陽は、きっと今も、あの黒い殻の中で必死に戦っているのだ。無駄なのだと分かってはいても、何かできることがある筈だ。彼女はそう言って、太陽の様子を観察しつづけた。
日が経つにつれて、噴出する炎の勢いが弱くなった。彼女は焦った。このままでは大好きな太陽が死んでしまう。けれど、彼女はなんの可能性も見出すことができなかった。彼女にできたのは、ただ太陽を見ていることだけだった。
次第に無力感が彼女を覆い始め、それはやがて絶望へと変わった。
「どうして太陽なんだろう。どうして私じゃないんだろう。太陽がいなければ私はただの岩の塊だ。その上、愛しい存在が苦しむ姿を前にして何もできないなんて。そんな私なんて、なんの価値もないじゃないか」
卑屈で鬱屈とした感情が彼女の中で膨らんだ。それでも、彼女は弱りゆく太陽から目を逸らさなかった。それをしてしまえば、本当に自分はただの醜い岩の塊でしかなくなってしまう。
そして、彼女はついに見つけた。小さな、小さな可能性を。
赤い炎は、必ず同じ場所から、同じ周期で噴出していた。そして、その度僅かに周囲の黒い殻が剥がれ、散っていたのだ。もし、太陽が炎を噴出するその直前に、その弱くなった部分を破壊しておくことができたなら、太陽はそれに気づいてそこに力を集中するに違いない。
もう時間は残されていなかった。噴き出す炎は、微かだ。
彼女は迷わなかった。気付いた時には、彼女は太陽に向かってその身を一直線に走らせていた。
星たちは騒然とした。自殺行為だ。無謀だ。戻るんだ。口々に星たちは叫んだが、彼女は戻らなかった。
黒い殻に覆われて尚、太陽は圧倒的な温度でもって周囲を焦がしていた。太陽に近づくにつれ、彼女の体は焦げ、炎に包まれた。それでも、彼女は速度を緩めなかった。むしろ速度をさらに上げて、太陽のもとへと急ぐのだった。
「今まで、沢山の喜びや嬉しさ楽しみや幸せをもらったのに……私はまだ何も、何も返してない」
月は何も言わずに妹を目で追っていた。あの子がなんの考えもなしにあんなことをするわけがない。あの行為には、何か意味がある。誰より近くで、月は妹を見てきたのだ。太陽に想いを馳せ、夜には妬ましいくらいに輝く妹を。そして、誰もが絶望に沈む中、諦めず太陽を眺めつづけた妹を。月は、妹の行為が意味を持つように祈った。それが、太陽を諦めた、目を逸らした月にできる、唯一のことだった。
黒い殻に包まれる以前なら、太陽に触れることなど不可能だった。太陽に触れるその前に、圧倒的な炎で燃やしつくされてしまうからだ。太陽はその体ゆえに、他の星を寄せつけぬ、孤独な星だった。そんな太陽に彼女の燃え上がる体が触れた。太陽が赤い炎を吐き出しつづけた、寸分たがわぬその場所に。
星たちは、その瞬間を固唾を飲んで見守った。それは、気の遠くなるような一瞬だった。
彼女の体は黒い殻に衝突し。
そして。
砕け散った。
どの星も言葉を失い、砕け散る彼女の姿を見ていた。
「やっぱり無駄だったんだ」
ぽつりと呟かれた声に誰かが答える。そうだ、どうしてあんなことを。呟くようなその声は次第に大きな声へと変わった。皆が皆、どこか怒っていた。それは、何もできない己に対する怒りであり、どうすることもできない絶望であり、彼女を失った悲しみでもあった。
「待って!」凛とした月の声が響く。「太陽が!」
皆が太陽へと視線を移すと、彼女がぶつかったその箇所が、光を放っていた。やがてそこを起点に黒い殻に一つ、びしり、と亀裂が走った。
星たちがどよめきたった。
しばらくしてまた一つ、亀裂が走る。一つ、また一つと亀裂が増えた。亀裂は縦横無尽に太陽を駆け巡り、蜘蛛の巣状に光の筋を描いた。
閃光。
黒い殻が一瞬で消滅し、周囲を白い光が照らしつくした。これまで照らせなかった不足分を全て補うような強烈な光だった。
それは特大級のフレアだった。
彼女が衝突したその箇所に、太陽は力をすべて賭けたのだ。
「見ろ!彼女だ!」
誰かが叫ぶ。強い強い太陽の光の中を泳ぐ流星群があった。砕け散った彼女の欠片が流星となり降っているのだ。流星になった彼女は、太陽の強い光の中にあっても決して霞むことない光でもって光り輝いていた。彼女は、優しい光を放ちながら方々に流れていった。
「きっと、君の祈りが届いたんだ」
ある星が月に言った。
「ううん、そうじゃない」月は言った。「祈りが届いたわけでも、願いが叶ったわけでもないよ」
月はそれ以上は何も言わなかった。
太陽の光に照らされながら流れゆく彼女は、今までに見た、どんな彼女の姿より美しかった。
□
昔々、夜の空には二つの大きな星が浮かんでいた。一つは月。そしてもう一つは月の妹だった。
月の妹に名前はない。妹は名前をつけてもらうことができなかった。なぜなら、言葉が生まれるよりも前に、彼女は死んでしまったからだ。だから、星としての彼女に名前はない。
けれど。
地球に降った彼女の欠片は、後に地上で花を咲かせた。
太陽に一番近い季節に、太陽に向けて大輪の笑みを咲かせるその花に、人は名前をつけた。
太陽を追うもの、「ひまわり」と。