川上未映子さんの「私はゴッホにゆうたりたい」読んで身勝手に思ったこと。

 最近川上未映子さんの作品をだらららっと3冊読んだ。読んだ順にタイトル挙げると「乳と卵」、「わたくし率 イン歯ー、または世界」、「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」。文庫になってるのがこれで全部なら、後はハードカバーしかありませんね。欲しい。けどハードは電車で読み辛い。まさにハード。

 最後の「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」(以下「そらすこん」)の中に「私はゴッホにゆうたりたい」というタイトルの文章がある。今日はそれ読んで思ったこと。

 一応文章自体は今も彼女のブログでも読める。以前一度Twitterで呟いたのでそっから読んでくれた人もいるかもだけど。

未映子の純粋非性批判「私はゴッホにゆうたりたい」
http://www.mieko.jp/blog/2005/03/post_3.html

 以下本文。

 「そらすこん」はエッセイだ。ブログを加筆修正して本にしたもの。そらすこんにおける川上未映子さんの文は、関西弁で書かれている。俺は関西弁を喋れたりしないので、それが実際の関西弁とどのくらい違和感を持って映るのかは知らんが、言葉のチョイス、句読点の置き方、それらが独特のリズムを持っていて、個人的にはそれが凄い心地よく入ってくる。

 そんな川上未映子リズムに揺られて「そらすこん」を読み進めていくと、上述の「私はゴッホにゆうたりたい」にぶつかった。この文章を読むのはそれで二度目だ。一度目はブログの記事だった。会社のトイレで、携帯から読んだ。(どうでもいいけどトイレの個室好き。狭いし独りだし囲まれてるし落ち着く)トイレの個室で、泣くのを堪えるのが大変だった。きっと、家なら多分泣いていた。声を出して泣いたかもしれない。

 この文章は、全身全霊の肯定だ。川上未映子という今を生きる一人の人間が、もう100年以上も前に死んだ一人の画家に対して、なんとかして想いを届けんとする文章だ。

 ゴッホが、生前何を思っていたのかを我々が知ることはできない。彼が、一体どんな気持ちで絵を書き続けたのかを、知る術はない。だからこれは、川上未映子さんの勝手な想像によるものだ。けれど、けれども、この肯定は、そう言う全てを吹っ飛ばす強さを持っている。そういうの全部全部越えて、丸ごと肯定だ。ゴッホという作家の人生の肯定だ。存在の肯定だ。

 こんな風に自分自身を肯定してくれる人が、いったい人生に何人いるだろう?

 俺はゴッホのこと何も知らんけど、この川上未映子さん言葉が、想いが、生前のゴッホに届いたらいいと思った。『何とかして』、届けって思う。

 でも、きっとそんなことは起こらない。それを思って、とてもとても悲しかった。

 それは、涙がでそうになったその理由の一つだろうと思う。でも、それだけでは説明がしきれない気がした。それだけじゃない、何か他の理由が、言語化されずにぐずぐずもやもや胸のあたりにわだかまっていた。



 そんな一回目のあと、二度目の文庫。読んだ後、ふと思った。

 「この人を、こんな風に肯定してくれる人はいるのだろうか?」

 川上未映子さんが「私はゴッホにゆうたりたい」を書いたのは2005の春だが、その頃、彼女は世間に評価されている、とは言い難い状態にあったと思う。当時はまだ文筆作品は世に出回っておらず、音楽の方も本人いわく「壊滅的に売れなかった」らしい。

 けれど今「川上未映子」と言えば、芥川賞中原中也賞、紫式部文学賞などを受賞し、最近では映画にも出演し評価されている(キネマ旬報新人女優賞、おおさかシネマフェスティバル新人女優賞)。これは、世間から認められている、と言ってもいいと思う。当然評価なので賛否両論あってしかるべきだろうけれど、それでも彼女は今では世間に評価されている。そう言っていいだろう。

 けれど、そうではない。俺が言いたかったのはそう言うことじゃない。

 上で、『この「私はゴッホにゆうたりたい」という文章は『人生の肯定』、『存在の肯定』だ』みたいなこと書いたけど、言いたかったのはそういうことだ。あの文章が書かれてから5年の間に彼女の人生には色々な変化があっただろうと思うけれど、彼女のこの言葉みたいに、彼女の人生を、彼女の存在を肯定してくれる「誰か」はいるのだろうかと、思ってしまったのだ。

 なぜそんなことを思ったのだろうと考え、はと気付く。だから初めてこの文章を読んだ時、あんなにも泣けたのだ、と。

 俺は川上さんのことを何も知らない。何も、何にも知らない。だからこれはきっと俺の勝手な想像に過ぎないのだろう。けれど、俺はあの文章に彼女の孤独を見たような気がしたのだ。それは、あの文章を書いた当時の彼女のものであるのか、それとも過去の彼女のものであるのかは分からない。けれど、あの文章の向こうにいる、川上未映子という人間の『淋しさ』や『哀しみ』や『孤独』を勝手に想ってしまった。この言葉を、本当に、本当に言って欲しいのは、彼女自身だったのではないかと。

 勝手な話だ。彼女が本当にどうだったかなんて知る由もないのに。

 でも、あんな文章を書くこの人に、この人を、肯定してくれる誰かがいたらいいって思う。彼女の人生を、彼女の存在を、全身全霊で肯定してくれる誰かが居て欲しい。そうであって欲しい。全く勝手で、独善的で、おこがましい思いなのかもしれないけれど、あんな優しい言葉を書けるこの人に、そういう人がいたらいいって想う。すげえ思うよ。とても、身勝手に。