収束する物語

 人は変わる。

 そんな当然のことを、実感する瞬間がある。それは、本当に些細な瞬間だ。紅茶を飲んでいるときだったり、朝目覚めたときだったりする。だけど、変化といってもそんなに大きなことじゃない。例えば、薄めに入れるのが好きだった紅茶を、最近では濃い目に入れて飲むようになったとか、朝が苦手だったのに、目覚ましが鳴る前に目を覚ますようになったとか、朝食はお米よりもパンを食べるようになったとか、部屋を片付けるようになったとか、JAZZのCDが増えたとか……他にも、色々と。それは意識的にそうするようにしたものではなくて、気付いたらそうなっていた、という類の変化だ。気付いたら夏が終わって、秋になっていたみたいに。変化は、少しづつ、だけど確実に僕の中で起こった。そして、それらの変化に気付くたび、僕は少し嬉しい気持ちになって、そしてすぐに少し不安になる。変化は、僕だけに起こったのではない。きっと、寝室で眠る彼女にも、この家にも、この街にも、いや、きっと何もかもが、今この瞬間変化しているのだ。僕らが、望むと望まないに関わらず。

 朝、目覚ましが鳴る前に目を覚ますと僕はキッチンに向かう。紅茶を淹れる準備をするのだ。多めの水を火にかけてから、マグカップを二つと紅茶のポットを取り出す。いくつか並んだ茶葉の缶の中からアッサムの茶葉を選ぶ。そうして、取り敢えずの準備が整ったら、お湯が沸くまでの時間、換気扇の下で一本煙草を吸う。中火と強火の間くらいで火にかけると、丁度一本吸い終わる頃にお湯が適温になることを、経験で僕は知っている。最後の煙が換気扇に吸い込まれていくのを確認してから煙草を消して、紅茶を淹れ始める。そうして、茶葉が蒸れるのを待つ間にもう一本、煙草に火をつける。朝の紅茶を淹れるコツは二本の煙草だと、僕は結構真面目に信じている。

 ポットと一緒に温めておいたマグカップに二人分の紅茶を注ぐと、僕はそれを持って寝室に戻る。寝室は薄いカーテンの繊維の隙間から漏れる、淡い、白い朝の光で満ちている。僕はそっとサイドテーブルに紅茶を置くと、静かに彼女のベットに腰掛ける。彼女はすやすやと寝息を立てて眠っている。彼女のベットはいつも、もしかしたら死んでいるんじゃないか、と思う程に乱れがない。僕はいつも心配になって、彼女の胸が規則正しくタオルケットを持ち上げるのを確認して、胸を撫でおろす。普段、無愛想で、無表情で、一見冷たく見える彼女だけど、寝ているときだけは少し幼く見えた。安心しきった、子供のような寝顔。僕はそんな顔をして眠る彼女を、しばらく眺めている。当然、彼女はそんなことは知らない。きっと、それを知ったら左の眉を少し上げて、悪趣味ね、と言うだろう。それを想って口角が上がる。
 時計を見て、彼女の目覚しがなる前にそれを止める。彼女は僕が起きられなかったときのために、いつだって目覚ましを掛けてから眠る。それは、慎重で用心深い彼女の性格を端的に表す行為の一つだと僕は思う。彼女は石橋でも叩いて渡るタイプなのだ。

 僕は静かに彼女の髪を上げて耳を出し、そこにそっと唇を寄せた。いつだって、彼女を起こす言葉は決まっている。
「――さん、朝だ」と僕は囁く。

 彼女は、部屋に満ちる朝の光にしかめ面しながら、目を薄く開く。おはよう、と僕は言う。彼女は眠そうな目でこちらを見てから、ゆっくりと起き上がって、一つ、伸びをする。 僕はサイドテーブルに置かれた縁なしの眼鏡を右手に、紅茶を左手に持って、まず眼鏡を渡す。彼女はそれを、まるで壊れ物を触るみたいにそっと掛けてから、両手で紅茶を受け取る。そうして、まだ白く湯気の上がるマグカップを両手で包むように持つと、ゆっくりと口に含む。そして一言。

「ちょっと渋いわ」

 僕は、解っているのに、自分の紅茶を飲んでから、「あ、本当だ、ごめん」と言う。でも表情は微笑んだまま。彼女の顔が、一瞬笑みの形に変わったかと思うと、直ぐにうつむいて、紅茶をまた一口。彼女は未だに、笑顔を見せることを恥ずかしがっている。彼女は仏頂面で、僕は微笑んでいる。だけど、二人の表情のちぐはぐさとは裏腹に、ここに満ちた空気が、僕を安心させる。そして、ありがとうの代わりに、彼女は少し僕に体を寄せる。

 僕らはそうして、毎朝紅茶をゆっくりと飲む。晴れの日には、部屋を満たす光の中で。雨の日には雨音を、風の日には風の歌を聴きながら。毎朝、毎朝、繰り返し。僕は、この予定調和的なやり取りを、心の底から大切に思っている。決められた結末に向けて収束していく、いつもの朝の時間。それは、二人の儀式なのだ。物語にそって進む、そう、まるで劇のような。

 それでも、細部は少しづつ変わっていく。きっと、これからも。いつか彼女は、笑顔を隠すために俯くことをしなくなるかもしれない。それは僕にとっては嬉しい変化だけれど、そうでない変化だって、起こり得るのだ。確かなものなど何もない。だから、予定調和なんて言っても、それがいつだって同じような結末に向けて収束するかどうかだって、解らないことなのだ。だから、僕は明日も目覚しが鳴る前に目を覚ますし、普段より濃い紅茶を淹れる。そうして、いつもと一字一句変わらぬ言葉で、彼女を起こす。彼女は目覚ましをかけて眠り、いつもの言葉で目を覚ます。そうして、いつも濃い紅茶を淹れる僕に、渋いと言ってみせる。それを正そうとは、決してしない。そして僕は、それに謝る。直す気は少しもないのに。

 僕たちは、演じ続ける。いつまでも、決められた結末に収束するよう、願いを込めて。観客のいない、二人だけの、劇を。