5月から散発的に書いていたなにか

 GWは5日までだったのだが、気分は8までGWなので全く仕事をする気にならない。GW中にあった中学時代の友人は8までの10連休だと言っていたが、日本人のうち10連休は6%程度しかいないという話をしていた。6パーセント! そういえば、やれ「休みが長すぎると金がかかる」だの「休みが長くてもすることがない」だの、ゆえに「むしろ長い連休はノーサンキュー」みたいなことを言い出すおっさんが割といると以前も書いたが、今回もそうした会話が繰り広げられていた。休日にやることがないのはお前の勝手だしお前がなんとかしろと言いたくなるが、まあ働きたい人が働くことに文句を言うつもりはない。ただ、他人に休まないことを強要するのなら死んでほしいなあ、と思う。自分には無縁の悩みだ。休みは長ければ長いほどいいし、むしろ働かないですむなら働きたくない。totobigが当たったら利回りの良い株やら不動産やらをいくつか所有して不労所得で暮らしたい。お金が勝手に働いてお金を稼いでくれるって最高だよ。

 と、このあたりまで書いたところで中断して、今は14日である。結局一週間おいてしまったので、なんとなく書きたいなあと思っていたことは通り過ぎてしまった。もうずっとそんな感じで毎日が過ぎていく。書き留めておきたいことや気持ちやなにやらかにやらあるようなないような日々だけれど、書く余裕がない。余裕というのは時間ではなくて、環境であったり心持であったりだ。家のパソコンが壊れてキーボードが使えないのが一番の問題だとは思う。GWが終わってから一週間ほど経って、やっと心が戻ってきたような気がするが、戻ってきたとして仕事をばりばりやる気になっているかと問われると、そもそもばりばり仕事をやる気になったことは未だかつてあまりない。

 と、さらにここまで書いて中断して現在はもう27日である。また十日以上も日が空いてしまった。さすがにもうGW気分がどうのこうのと言っている時期ではなく、そろそろ梅雨に入ろうかという天気である。今年の梅雨入りは6月8日あたりだと誰かが言っていた。梅雨はじめじめしているし、あまり気分も晴れないが、梅雨が明けた先に夏がある、という感覚のせいなのかそこまで嫌な印象がない。

 そして31日になった。仕事の合間にちょこちょこと書いているせいでこの体たらくである。もう五月が終わる。一か月かけてこれしか書けていない。さわりの部分を書き始めてさわりの部分で終わってしまうのでまるで中身のない文章である。表面を撫でているだけ。

 ついぞ6月6日である。なんだこれは。東京は梅雨に入ったという話だが、なんともはや。ゴールデンウィークが明けてだるいとか話していたのにあっというまに6月。時の流れの早さは歳とともに加速するというが、実際早いような気がする。

 最近よい靴が欲しいなあと思っていくつか候補を挙げてそれにむけて目下貯金を進めている。もともといつか履いてみたいと思っていた靴が何足かあるのだけれど、その「いつか」はそろそろかもしれないな、と思えるようになったのだ。今から買うよい靴は一生ものになるだろうと踏んでいるので、10万超えでも別にいいかな、という心持になった。30代になったことと、子供が生まれたこととこれは無関係ではないような気がしている。

 これは靴に限ったことではないけれど、個人的な嗜好の問題として、定番、名作と呼ばれるものは手にして触れてみたい、という思いがある。はたしてそれにいかほどの価値があるものなのかは人によるだろうが、その判断は手にしてからでも遅くないだろうし、大概定番だの名作だのと言われて長い時間を経て残ったものにはなんらかの理由がある(ように思える)。なんでもかんでも定番、名作では面白みもないし、そもそも自分に合うのかどうか、という問題はあるのでそのへんの取捨選択や見極めが大事にはなるのだろうけど。

 そして6月11日である。もはやこの文章を何のために書いているのかが分からない。

 さらに6月20日である。散発的な日記になってきた。いちいちTwitterに書くほどでもないけれど、ブログの一つの記事にするでもない、みたいなことを書くにはいいのかもしれない。そういうのが割とある。例えば子供に名前をつけるときに考えていたことなど。

 そして、時は流れた。今は9月15日である。約3ヶ月の月日が流れたが、その間についに壊れていたパソコンを購入したので、今は自宅から新しいパソコンでもってこれを書いている。書き出しはGWの直後だが、夏休みが終わった切なさもさすがに乗り越える時期になった。年末まではわりとやることが多いのでぐだぐだ言っていられない。この3ヶ月は正直仕事上で大きな変化があって気を揉むことが多かった。今まで自社の大きな部分を担っていた人間が退社するのに伴って、そこを自分が引き継ぐことになった、というだけのことで、端的に言うとラッキーな出世というやつなのだが、今までよりも仕事量が増えるのでまだいまいちペースがつかめない。

 子供に名前を付けるときに考えていたこと、とそういえば書いていたが、そうだった。それについて書こうと思う。新しいパソコンで文章を書くのが初めてなので、変換の頭が悪くて気が狂いそうだ。

  子供の名前を考えるときに、できるだけ名前に期待とか過剰な意味を付与したくないな、というのは思っていた。というのも、名前は、対象を縛るある種の呪いであると思っているので、できるだけその縛りの緩いものにしたい、と考えていたからだ。たとえば、ひらがなの名前なんかがいい、と思っていた。漢字はその文字それ自体に意味がありすぎるので。まあ、名前なんて関係なく子供は育つのかもしれないし、実際よほどでなければ名前はただの名前でしかない。さらには、そうしたこの思いもある意味では期待や、意味の付与なのだろうけれど、そういうことは置いておく。あと、画数は気にしない、と思っていたけれど、いざ調べてよくない結果が出ると、気にならないとは言えなかった。流派によっても結果が違うし、名前の画数で一体人生の何が!とは思うのだけど。画数を気にしないのなら、調べてはだめだったのだろう。画数診断とか考えだしたやつは死ね、と何度か思った。でもまあ、考えだしたやつはおそらくもうだいぶ昔に死んでいるのだろうな。でも実際、いつごろから画数診断とかってあるんだろう。

 結局子供の名前は生まれた時間帯を表す言葉に、画数の関係で一文字足した名前にした。例えば、女性なら夕子、男性なら夕太とかそんな感じの。いつか「どうしてこの名前を付けたのか」と聞かれる時がきたときに、できるだけ意味のない名前にしたかった、というこの思いは幼い子供には理解されづらいかもしれない。

 と、ここまで書いてから、なんとなく、子の名づけ関連のいくつかをツイッターに上げてしまった。ブログは書かないでいればいるほどハードルがあがる。まあいいや、とりあえずブログにもあげよ。

 書きたいなーって思ってることいくつかあるんだけど、どうしても通り過ぎて行ってしまうな。

禁煙をしている。

 禁煙をしている。半年強経つが「禁煙した」と過去系ではまだ書けない。「煙草をやめた」とももちろん言えない。「禁煙」は現在進行形の状態なので、現在は喫煙者と非喫煙者の間を不安定に漂っているような状態なのだと思う。禁煙を始めたのには一応理由があると言えばあるのだけれど、そこまで強い決意でもって禁煙を始めたわけではない。なんとなくやってみるか、という程度の気持ちで始めた。ら、思ったよりも続いている。どこまで続くのかは分からないけれど、そもそものきっかけになったことが覆った場合、やめる理由が消えるので、禁煙もやめるかもしれない。少なくとも、煙草が嫌いになったとか、自身の健康を気づかったとか、そうしたことが理由ではない。

 煙草を吸いたいなあと思うときは今もある。禁煙初期のころに比べると頻度は格段に減ったが、これもニコチン中毒による禁断症状なのだろうか、なのだろう。実に難儀なことだ。ただ、一番きついなあと感じるのは恐らくニコチンを摂取できないことではなくて、「喫煙」という行為ができないことだ。つまり、煙草をとりだし、咥えて火をつけ、煙を吸ったり吐いたり、灰を落としたり、もみ消したりする、そうした行為ができないことがつらい。喫煙をしていたころを思い出してみると、おそらくニコチンの摂取を目的とした喫煙よりも、行為を目的とした喫煙のほうが本数は多かったように思う。習慣を変えるというのは難しいことだ。代替手段があればいいのだが、今のところ見つかっていない。電子煙草のようなものも試してはみたが、どうにもしっくりこなかった。今のところ、爪楊枝を噛むのが一番気がまぎれるが、まぎれるだけでしかないし、あまり外で爪楊枝を齧っているわけにもいかない。

 今のところ喫煙をやめたことによる身体変化はあまりないが、感じていないだけであるのだろうか。今のところ目に見えて分かるような変化はなにもない。強いて言うなら、我慢している、というのが禁煙して変化したことだがそういうことじゃない。飯が美味くなるとか、息が切れなくなるとか聞いたけれど、今のところはよくわからない。煙草を吸っているときも、禁煙をしている今も、変わらずに飯は美味いし、息の切れに変化はない。なんか劇的に、うおお体軽い!はっぴー!となればいいのだけれど。ただ、うおお!体軽い!はっぴー!となるということは普段は体軽くないからそうなるのだろうし、事実、体軽いはっぴー状態は年に数回あるかないかである。もともとの体の問題なのだろう。

 そういえば、禁煙したことを自分からは話さないようにしている。喫煙者は煙草吸っちゃえばいいじゃん、と冗談で誘惑してくるくらいで特に害はないが、煙草を嫌っている人が「仲間」みたいな感じで話をしてくるのが面倒くさい。禁煙してはいるけど別に煙草を嫌いになったわけでもないし、喫煙者を憎んでいないし、やめることをやめるかもしれないし、もっというと良し悪しなんてどうでもいいのだが、どうにも煙草というのは坊主憎けりゃ袈裟までみたいなところがあるようだ。ただ、健康被害については知らんが、臭いと煙そのものは鬱陶しい。飲み会の後、髪についた煙草の臭いとかほんと糞だし、これから美味しい飯を食おうって時にもくもくと煙草煙ってるのも糞。これは煙草を吸っているときからそう思っている。色々な場所は禁煙がデフォルトで、喫煙できる場所はサービスとして提供されるものになるのだろう。

 しかし、十年以上続けてきた習慣の一つをやめることは、ニコチン中毒云々を脇においても容易ではない。煙草を吸い始めたのが冬だったせいか、寒くなって息が白くなるとことさらに煙草を吸いたくなる。煙草は暑い夏よりも、寒い冬の乾燥した空気の中ですう方が旨いと思っているのだけど、おそらく気分の問題だろう。吐く息の白さと、煙の切れ目が分からなくなると、冬だなあ、と思ったものだった。さまざまな記憶やことものと煙草が結びついている。煙草が吸えないことは、そういう意味でも、少しだけ寂しい。

Henning Schmied「Walzer」

 Henning Schmiedtの新しいアルバムが出た。発売日に届くようにAmazonで予約をしていたのだけれど、結局届いたのはその翌日だった。誰かの新譜がでることを楽しみに待ったのは、久しぶりな気がする。そしてその新譜がとてもよかったのも。

 アルバムについての概要を、公式レーベルのホームページから引用する。

『Schnee(=雪)』『Spazieren(=散歩)』『Wolken(=雲)』と傑作ソロピアノ作品をリリースしてきたピアニストHenning Schmiedtがワルツにインスピレーションを受けてレコーディングしたというニューアルバム。
ワルツのリズムを軸にして、ステップを踏むように、流れるように瑞々しいメロディーの数々が舞い踊る。あるカップルのために書かれたというウェディングソング「hochzeitslied」、前回の来日公演でも披露された「fernblau」など、過去3作で外へと向かっていたHenningが、ピアノの部屋に戻ってシンプルな旋律の強さに向かい合って作ったという、切なくノスタルジックなアルバムに仕上がっています。

flau records/walzer http://flau.jp/releases/51.html

 

 過去の作品も素晴らしい作品ばかりだけれど、今回のこのアルバムはまた一段とよい作品に仕上がっている。まず、聴いてもらうのがなによりだと思う。

 

 

アルバムから一曲。

 

 音楽を言葉で表現するのはとても難しい。厳密には不可能だろう(そもそも、言葉でなにかを完全に説明することはできない)。けれど、それでも言葉にしたくなる。なんて優しい音なんだろう。そっと寄り添うような、その温もりまで感じられるような。

 

 これは飽くまで自分がそう感じる、という話でしかないのだけれど、このアルバムの曲はどれも、とても内的でパーソナルなものに感じる。紹介文にあった『過去3作で外へと向かっていたHenningが、ピアノの部屋に戻って』ということがそういう意味であるのかは分からない。でも、このアルバムの曲は、大切な人や、大切な時間や空間、愛すべき日常を思って奏でられているように思えるのだ。だって、ピアノの一音一音に愛が溢れている。

 

 音楽を言葉にしようとすることはある意味では愚かなのだろう。でも、このアルバムをとてもよかったと思ったことを、聴いて感じたことを、書いておきたかったし、誰かに伝えたかったのだ。

 

Walzer

Walzer